『地下鉄に乗って』

雑感

浅田次郎さんの小説ばかり読んでいる。小説家という人々は、何らかの得意なこだわりを持っている人が多い。朝田さんもその一人だろう。競馬がものすごく好きな方なので、作品にも競馬にまつわるものがある。自分の好きな世界を深く描くということが、作品に深みを与える。朝田さんは、手書きの作家で、辞書がすこぶる好きな人だ。作品の中には読めない漢字が出てくる。読み手のぼくは、文脈の中にある漢字の読みを、なんとなくこう読むのだろうと狙いを定めて読んだりするが、ときどききちんと確かめてみたくなる。ネット時代なのでどう読むのか、調べて読んだりする。
朝田さんの短編の中に「日昏れ」という表記があった。日暮れのことだろうと思ってネットで検索してみると、この言葉で読みを引けないことが分かった。ヒットするのは、いずれも「日昏れ」という言葉を使った作品や短歌だった。
「黄昏」と「日昏れ」と「日暮れ」には、時間的な違いがあるのだろうか。

最近読んだ小説は『地下鉄に乗って』だった。この作品については映画化されていたので、レンタルか何かで映画を観た記憶がある。でもどんな映画だったのか、記憶をさぐっても、地下鉄を走る列車から見た地下の線路が右に左に曲がりながら進んでいくシーンぐらいしか思い出せなかった。ものすごく眠たくて、途切れ途切れに映画を観た記憶があったので、小説を読んだあとで映画を見直してみたくなった。
WOWOWプライムの会員だからテレビでプライム・ビデオを観ることができる環境にあるので、『地下鉄に乗って』を検索してみた。作品はすぐに観ることができた。ぼくの眠たかった記憶とともに残っていたのは、主人公は伊藤英明さんが演じていたのではないか、ということだった。しかし、この記憶はまったくの間違いで、主人公は堤真一さんだった。

見始めると、かなり忠実に原作を再現している映画で、小説を映像化していることが分かった。なんだか嬉しかった。
「読んでから見るか、見てから読むか」
というコピーが角川映画に付けられたことがあったが、『地下鉄に乗って』は、読んでから観ると面白い。映画で描かれていない部分を小説がおぎない、小説に書き込まれていない部分を映画が表現する。
映画による新しい解釈が、原作との違いになっている部分もあった。小説よりも映画の方が、ヒロインのみち子の描き方がていねいだったし、彼女の悲しさが小説以上に映像によって深く表現されていた。父親の小沼佐吉は原作よりも人間らしさがよく出ていた。だからだろうか。主人公小沼真次の父親に対する思いは次第に変化して、小説では会いに行かなかったのに、父親の病室を訪ねるシーンが加えられていた。

映画化された作品を観て、小説と映画とを見比べてみたいような気持ちになっている。


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雑感

Posted by 東芝 弘明