子どもの貧困対策に取り組んでほしい

雑感, 議員の活動

子どもの貧困をもう一度とらえ直すために、「前衛」と「雑誌経済」の子どもの貧困特集を読んでいる。一番多面的に力になったのは「雑誌経済」だった。とくに2009年12月号の特集には、目を開かせてくれるものがいくつもあった。科学的社会主義の経済学や哲学に立脚した視点での考察には、深いものがある。
子どもの貧困の土台には、経済的な貧困がある。経済的な貧困には文化的な貧困が重なり、この経済的貧困と文化的貧困によって発達の貧困が重なっていく。経済的貧困とDV、ネグレクトは容易に結びつく。人間にとって文化は人間を育てる精神的な食糧(「文化は人間の精神的な食糧だ」(マルクス「経済学哲学手稿」))なので、貧困の文化である経済的な疎外とDVやネグレクトを文化として押しつけられてきた子どもは、その中で成長することになる。
罵声、罵り、暴力が日常的に繰り返される家庭の中で育つ子どもたちが、そこからどのような影響を受けるのか。そういう文化だけを押しつけられてきた子どもは、どうなっていくのだろうか。経済的貧困の中でインスタントラーメン(おもにカップ麺だろう)を主食として育ってきた小学生は、低学年で脂肪肝になった事例がある。
発達の貧困とは、人間として十分に肉体的にも精神的にも発達しないということを意味する。中学生や高校生になると発達の貧困は、自己嫌悪感が強くなり、明日のことも、自分の未来も考えにくくなり、希望さえ剥奪されるような状況になる。「前向きでない」「意欲がない」という現象には、発達を疎外されてきた歴史が蓄積されている。

経済的な貧困によって、貧困でない家庭が普通に実現している誕生日会や購入されるべき商品が買い与えられないで育っていると、相対的な剥奪状態が生じてくる。この相対的な剥奪が、子どもに与える影響はすごく深い。

相対的剥奪とはなんだろうか。自分の体験を書いてみよう。
ぼくは、中学校で剣道部に入り、剣道着を買ってもらわなければならなくなった。当時すでに入院していた母は、教員だったが母子家庭で3人の子どもを育てるという状況下で、なかなか剣道着を買ってくれなかった。家庭の事情など考える視点のなかったぼくは、母に繰り返し剣道着を買ってほしいことを訴えた。母が買ってきた剣道着は、木綿製のゴワゴワした、明らかにみんなとは違う物だった。恥ずかしさが押し寄せてきて、着るのがものすごく嫌だった。それでも当時は1万円ほどした商品だった。
相対的な剥奪というのは、こういう形で子どもに現れる。中学校入学時に買ってもらった自転車は、みんなよりも1ランク下の物だったし、高校に入っても単車は買ってもらえなかった。ぼくは、1万円か2万円の中古の単車を手に入れて乗っていたが、明らかにみんなとは違っていた。44年前の1万円の価値は、今よりもはるかに大きいが、1万円で買える商品数は今の方がはるかに大きい。

高校生になると、母がガンで入院していた自分の家庭が、みんなとは全然違うことを分かるようになっていたので、中学校時代から着ていた学生服が傷んで着られなくなっても、買い替えてほしいとは言えなかった。兄貴の友だちが持っていた、わざと丈の短い「ツッパリ」制服をもらって着ていたが、それはまわりの同級生とは明らかに違う物だった。朝も昼も食事を採らずに夕食だけで過ごしていた期間も長かった。貧血状態が常に起こり、布団から起き上がっても、起立や礼をしても目眩が発生していた。体育の時間は、押し寄せてくる目眩との格闘だった。

相対的剥奪の状態は、物が豊かになっている時代だからこそ、ぼくたちが高校生だった時代よりもより一層惨めな事態を引きおこしている。ゲーム機を買ってもらえないだけで、仲間に入れてもらえず、惨めな思いをしている小学生は存在するだろう。高校生の中にも、明らかに九九も割り算もできない高校生がいる。自分の名前をひらがなでしか書けない中学生でも、高校生になる道はある。こういう子どもたちの中には、貧困が横たわっているケースが多い。高校を卒業せず退学する生徒は年間55415人(平成22年、文科省調べ)。この生徒たちの中には、学校を定時制に変更して再度高校生になっている例もあるが、どんな実態が横たわっているのだろうか。日本の社会は、高卒と中卒とを明確に区分している。どんなに勉強ができなくても、学力が身についていなくても、中卒と高卒とは全く違う扱いを受ける。
経済的貧困と貧困の文化、発達の貧困が、渦を巻いて子どもの未来を奪っている。自己肯定感をもてず荒れている子どももいるし、親を助けるために自分の夢をあきらめてアルバイトを選択して働いている人もいる。
高校が義務教育でないので、行政の把握の仕方が、小学校、中学校と高校生とは明らかに違っている。就学援助という子どもを救っている制度は高校生にはない。

「子どもの貧困がかつらぎ町に本当にあるのかどうか」
こういう意見が課長の中にもあった。2013年に子どもの貧困対策法ができ、和歌山県でも2017年に和歌山県でも子どもの貧困対策計画を決定した。本町では、20%近くひとり親家庭が存在している。国は、ひとり親家庭の半数が、国のいう相対的貧困状態にあるという統計を発表している。こういう状況にあるにもかかわらず、子どもの貧困という言葉すら長期総合計画には入っていない。
子どもの貧困をどう捉えて、どのような対策を講じるのかというのは、現在の日本社会の中でどうして貧困が発生しているのか。何が原因なのかということに対して、認識をもたないことを意味している。60軒を超える家庭に虐待問題があり、100人を超える子どもがそれらの家庭にいて、半数に経済的な問題が横たわっているという現実を把握している自治体の中で、子どもの貧困対策が正面に座らないのは、大きな問題だ。
明日の質問によって、1歩でも2歩でも取り組みを前に進めることができるかどうか。質問の目的はここにある。


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2018年6月12日雑感, 議員の活動

Posted by 東芝 弘明