『物語のつくり方』を読んだ
昼過ぎに和歌山市へ。会議に少し遅れて参加した。夕方終わるころに妻から電話があった。書けても出ない。6回もかけたのに出ない。妹のお店に立ち寄ろうと考えたが、電話が気になったのでそのまま帰宅した。気になりつつも妻が電話に出ないので、車で帰っている途中に娘に電話を掛けて、「ケーキ買ったるで」と話をした。岩出のケーキ屋さんでケーキを買って娘のアパートへ。
娘のアパートで、読みかけの本を読んだ。シナリオ・センター式の『物語のつくり方』。この前読んだ『プロだけが知っている小説の書き方』と併せて読めば、小説は書けるだろう。シナリオ・センター式の『物語のつくり方』の方は、ストーリーはそんなに凝らなくてもいいと書いてあった。これはすごく参考になった。
エンターテインメントの作品の中には、どんでん返し×どんでん返しのような入れ子構造をもった作品がある。ひっくり返ったと思ったら、もう一つそれをひっくり返す仕掛けがあって、このどんでん返し×どんでん返しは面白い。一生懸命そういうひっくり返しを考え抜いて、描いている作品もある。ストーリーテーラーの面目躍如だ。
たとえば『ミッションインポッシブル』。トムクルーズが演じているイーサン・ハントは、そんじょそこらにいる人間ではなくて、世界に1人しかいないような独特の生き方をしている。この作品にも、どんでん返しを仕掛けていることがある。同時にこの作品には、ノンストップアクションが仕掛けられているので、これを楽しんでいる人が多い。ただ、見ている人は、イーサン・ハントに感情移入しているだろうか。自分にはないヒーロー性への憧れはあるだろう。超人的なヒーローの活躍を見て、アクロバチックなアクションも含め、「面白い」ということで溜飲を下げているのではないだろうか。ノンストップアクションは、説明をほとんど省略し、スピード感を大切にするので、時間が経つとストーリーを忘れてしまう。一度見た作品も新鮮に楽しめるのも、仕掛けの一つだろうか。イーサンたちが、食事をするシーンは皆無ではないが、見ているとご飯も食べずにずっと闘っているように見える。『007』も同じ。ストーリーがよく分からない。いつ見ても新鮮だ。
世界に一人しかいない超人的なヒーロー。こういう世界を描いている作品は多い。エンターテインメント作品はそういうものでもある。個性的な主人公が、困難に直面し、試練を乗りこえて闘っていくというもの。そこには超人的な面白さはあるけれど、自分の人生と重なって共感したり、反発したりする作品ではない。ノンストップ・アクションの作品でも、人間の苦悩を描いているケースもあるが、スーパーヒーローが、あんまり長くじくじく悩み続けると、逆にイライラしてくる。ぼくは、アクション映画やSFやマーベリックスのヒーロー物も大好きだが、見てスカッとしたいという要求を満たしてほしいと思っている。
秀逸だったのは『スター・ウォーズ』だろう。この作品は、帝国とのたたかいがどうして起こったのかというテーマを描いている。民主的な国家が、クーデターによって帝国に変貌する中にシスとダースベイダーがいる。ダースベイダーは、アナキン・スカイウォーカーという若いジェダイだったので、どうしてアナキンが悪に転落したのかということと、どうして帝国が誕生したのかを深く、長期にわたる時間をかけて描いた希有な作品になっている。
しかし、ディズニーに権利を移管し、その後作られた『スター・ウォーズ』は、残念なものだった。続編というのであれば、民主的な共和国に対する新たな脅威にどう立ち向かうかを描くべきだったのに、抵抗軍は以前よりも困難な中で抵抗的なたたかいをしていた。これでは、それまでの叙事詩的なたたかいがぶち壊しになる。どうして、ルークが失意の中で年老いているのか、どうしてレイア姫が一層困難な中で闘っているのか、意味が分からない。
映画界やドラマを作っている人の中には、日常の生活の中で、人間を描きたいと思いつつ、作品を作っている人もいる。こちらの作品は、読む人に影響を与え、人生を考えることにつながったりする。日常生活の中で息をしている人物を描いて、人生を描くというような作品を書くことは大事だと思う。市井の人々に光を当て、それらの人々が何を大切にして、人生を生きていくのか。そういうところにテーマを見いだして描く。そういう作品に触れていきたい。
物語は、シーンを描いて、それを重ねていく。読者が読むのはシーンであり、そこに人間が描かれているかどうか。問われるのはそこだ。読んだ本には、テーマは台詞で語るな、作品の中に「溶け込ませ」、「無言で伝えよ」と書かれていた。これは面白かった。
WAOさんと違って、招かれざる客となるわたくしですが。この件では。わたくしも東芝様の御作を拝読致したい一人ではあります。恐らく野暮故に旗色鮮明になさっていないのだと思いますが、小説の書き方となれば、やはり社会主義リアリズムが肝要なのでしょうか。さてところで、どんでん返しと言えばミステリー小説です。日本の本格派のミステリー作家達は余りにも極端で、松本清張らの社会派を毛嫌いする余り、本格派は人間を描いてはいけないのだとまで言い切るようです。それでは小説にならないと思いますし、後期エラリークイーンも人間を描くことに苦心していました。人間如何に生きるべきかが書かれていないと文学ではないと言われたのは大昔の話ながら、本当に人間を描くことは、その努力は重要と思います。
yukioさん、招かれざる客ではないですよ。来ていただき感謝しています。コメントを書いていただく人が増えることを望んでいます。
ウキペディアでは社会主義リアリズムをこう規定していたと、紹介しています。
「現実を、社会主義革命が発展しているという認識の下で、空想的ではなく現実的に、歴史的具体性をもって描く。
芸術的描写は、労働者を社会主義精神に添うように思想的に改造し教育する課題に取り組まなければならない」
この規定は、芸術を国家が「社会主義リアリズム」という枠に囲い込む、とんでもない思想統制だと思います。素人のぼくでも分かりますが、文学作品で、歴史的に古い時代を書くとなると、社会主義の思想が生まれてもいなかった時代をも書くことになります。この時代を社会主義リアリズムで書くのは、明らかに無理があります。ロシア革命の少し前の時代を描くことすら難しいのではないでしょうか。
文学は、人間の現実の社会の繁栄なので、どういう表現がなされようと、国家が介入してそれを評価するようなことはすべきでないと思います。反社会的、反人間的な文学作品が出てきたとしても、それは何らかの現実の反映でもあるので、文学論として批評されるべきだと思います。
ぼくが今回、民主文学に送ったのは、ぼくの高校時代の話です。ぼくをモデルに主人公を描いていますが、今のぼくの視点で描くと、ある種、神が自分の過去の時代の生き方を裁定するようなものになりかねません。時代のことが見えておらず、迷ったり苦しんだりしているその当時の自分をリアルに描くことを通じて、物事を考える方が、リアルな世界を描くことになると思うので、ぼくはそういう形で書こうとしました。それが成功しているかどうかは、なかなか自分では分かりませんが、リアリティというのは、そういことだと思います。
作品の描き方として、神の視点で人物を描く方法もあると思いますが、このような視点で作品を書くのがいいのかどうか。書いたことがないのでよく分かりません。ぼくが書いたのは、主人公については、内面に立ち入って表現しました。そのまわりの人々については内面には入り込んでいません。
章を改めて内面まで描く人物を分けるという方法もありますが、今回はこういう形も取っていません。主人公を名前で描くのと「私」や「ぼく」、「俺」で描くのとはかなり違うと思います。一人称で描くと自分の見た範囲でしか作品を書けないという制約が生まれます。それはそれで面白いかなと思います。
こういう微妙な違いは、作品を書いてみないと分からないことでもあると思います。コンピューターのプログラムや条例の作成、一般質問の準備と原稿書きなどを行ってきたことが、作品を書くことに役立つことが見えてきました。時代と空間、人物の相関関係を具体的に描きはじめると、調べたいことが増えます。ぼくの場合は70年代の半ば以降を描いたので、その当時身の回りに存在した物や文化、単車の型、自動販売機の姿、テレビの型など全部きちんと押さえた上で描かないとリアリティが失われます。携帯電話がなかった時代、クーラーが家になかった時代です。人物と人物の関係もきちんと構成されないと辻褄が合わなくなります。そこをきちきち考えないと作品世界が壊れます。しかしそういうことを考えるのは面白いことでもあります。
時代は現代でも過去でもいいと思いますが、生きた人間をリアルに描くためには、膨大な取材は必要だと思います。
エンターテインメントにおける人物は、いわゆる超人が多い。この個性豊かな超人が、試練に直面し、苦しんで試練を克服して、問題を解決していく。これがエンターテインメントの基本だと思います。個性豊かな超人は、エンターテインメントの中には溢れかえっています。このキャラクターの魅力で作品を引っ張っていくのです。
ドラえもんが、今も続いているのは、のび太君を助けるスーパーマンとしてのドラえもん(ぬけたこところはありますが)の存在がなければ成り立たないところに面白さがあります。駄目なのび太君がドラえもんに助けられていろいろなことを経験しながら成長していく(なかなか成長しませんが)話ですね。
ちびまる子ちゃんとサザエさんは、スーパーマンのいない庶民を描いています。日常生活の中に人間の喜びや苦しみがあるので、それらを具体的に描いて、永遠の世界の中でそれを繰り返しています。サザエさんもちびまる子ちゃんも超長寿番組になっているので、もはや無限ループに陥っているSFではないかと思っています。タラちゃんはいったい、何回3歳のお正月を過ごしているんでしょうか。同じお正月なのにお正月のバリエーションは60回を超えているかも知れません。不思議な世界です。
宮﨑駿が、戦前の戦争前夜を描いた『風立ちぬ』で登場人物たちが煙草を吸いすぎるという批判が出ました。なんで、そんなことを批判するんでしょうか。へんな批判だと思いました。昔の時代を描くときに、ジェンダーという言葉もなかった時代をリアルに描き、しかもそれがジェンダー問題だと分かるように描いたのが『虎に翼』でした。この脚本家の筆力には驚かされました。
コメントへの長文のご返事有難うございます。もう学校で学んだのはかなり昔ですので、あらかた忘れていますが、中国文学を選択していました。毛沢東の文芸講話は何度も読みました。勿論文革は否定されていますけれど、毛沢東そのものは否定されていないと思います。またゴーリキー研究という本を読み、一般的リアリズムと社会主義リアリズムの比較について見ました。わたくしの学習は、甚だ浅い一知半解以下です。しかし、社会主義リアリズムが思想統制になっては当然困る訳ですが、結末において革命の必要性を認識させる全体の構成を持つ小説は、此処日本においても政治的に有益ではないでしょうか。いや、間違っていますかねえ。分かりません。
「結末において革命の必要性を認識させる全体の構成を持つ小説は、此処日本においても政治的に有益ではないでしょうか。」
これを否定するつもりはありませんが、現在の状況をリアルに描きながら、この命題にそった作品を書くことができるかどうかですね。
このテーマにあった作品を書くためには、近未来の時代を設定して描き、それをどう変革しようとしているかというフィクションを書くことになるかと思います。これはSFになりそうです。社会主義リアリズムを描きたいのであれば、SFがふさわしいかも。
現在をリアルに描きながら、革命(=いま問われているのは民主主義革命であり、社会主義革命ではない)の必要性を描くというのは、どうも図式主義になってしまうと思います。それよりも、現実と格闘しながら、リアルに人間を描く中で希望を描けるかどうかだと思います。現在でもやはり、小林多喜二が書いた蟹工船や党生活者のような描き方になるのではないかと思います。
テーマを設定するときに、社会主義リアリズムをテーマにするということでもあると思います。全ての作品が、革命の必要性を認識させることになったら、正直、面白くないと思います。