聽濤さんの本を読んだ感想
昨日、以前に亡くなられた聽濤弘(きくなみひろし)さんの本『地球限界時代とマルクスの「生産力」概念』という本を読了しました。この本は「かもがわ出版」から出されている本ですが、「かもがわ出版」の本の校正には、少々呆れています。「てにをは」の脱落が多いのです。どうして印刷物になっているのに、校正不足がそのままになっているのでしょうか。
過去に読んだ本にも同じ傾向がありました。この出版社の本で、校閲・校正がひどかったのは鈴木元さんという方の本です。スターリンというソ連の指導者の名前が誤植のまま残っていたりもしていました。そういう本に出会うとげんなりします。
聽濤さんのこの本に対する感想を書いておきます。
読みながら、面白くない本だと思った。聽濤さんの主張は、生産力と生産関係の矛盾の基本を書いたマルクスの「経済学批判 序言」の批判的検討を行い、生産力と生産関係の矛盾の捉え方を生産性と生産関係の矛盾として捉え直す必要があるというものだった。読んでいても、聽濤さんの主張からは、あまり現代日本の資本主義が抱えている諸矛盾という具体的な話が出てこない。マルクスの「経済学批判 序言」をマルクスの「資本論」を読み込む中で捉え直すということになっている。
聽濤さんの論理の中で象徴的な主張は、
「資本主義の生産力の一層の発展の上に築かれる社会が、自然との物質代謝を一層攪乱することになるのは理論的に自明であろう」
ということだと思います。このような理解になってしまうのは、驚きでもあります。聽濤さんのこの本では、友寄さんと聽濤さんのやり取りが、これらの論考を巡って丁寧に紹介されていますが、ぼくが読んだ感想として、頭に浮かんできたのは、マルクスの次の言葉でした(資本論第3巻より)。
資本主義的生産の制限は、資本そのものである。それは、資本とその自己増殖とが、生産の出発点および終着点として、生産の動機および目的として、現われるということ、すなわち、生産は資本のための生産であって、これに反して生産手段が、生産者たちの社会の生活過程をたえまなく拡大してゆくための単なる手段ではない、ということである。
生産条件の無条件的な発展と社会の生産力一般との衝突が生じるのは、後者が、資本がそれに基づいている特定の生産制限と、たえまなく矛盾するからである。……資本主義的生産様式は、物質的生産力を発展させ、これに対応する世界市場を作り出すための一歴史的手段であるが、それは同時に、このその歴史的任務と、これに対応する社会的生産諸関係とのあいだの、たえまない矛盾なのである。
この難しい言葉をGeminiに現代訳に直してもらいました(Geminiからの引用)。
資本主義という仕組みの限界は、ほかならぬ『資本』そのものの中にあります。
なぜなら、この仕組みにおいては、資本を増やすこと(自己増殖)だけが、生産を始めるきっかけであり、最終的なゴールになってしまっているからです。つまり、生産の動機も目的も『儲け』にあります。本来、工場や機械などの生産手段は、そこに生きる人々の生活をより豊かにし、広げていくための『道具』であるはずなのに、ここでは単に『資本を増やすための道具』へと逆転してしまっています。
科学技術や生産の条件をどこまでも発展させようとする凄まじい力(生産力)が、社会全体の矛盾として噴き出すのは、その力が『資本を増やす』というあまりにも狭い枠組み(生産制限)と、常にぶつかり合ってしまうからです。
……資本主義というやり方は、物質的な豊かさを生み出し、世界規模の市場を作り上げるという歴史的な役割を担ってきました。しかし同時にそれは、その歴史的な使命と、今の社会の仕組み(資本という利潤第一のルール)との間で、決して解消されることのない絶え間ない矛盾を抱え続けているのです。
この訳文は、今の人々が理解できるように言葉も補ってくれたので、分かりやすくなっています。
資本主義の仕組みの限界は資本そのものの中にある。つまりマルクスの「資本主義的生産の制限は、資本そのものである。」というのは、名言だと思います。生産力と生産関係の矛盾をこれだけ短い言葉で言い表したマルクスは、言葉の魔術師ではなく、資本主義という社会のメカニズムを深くつかんでいたからこそ、到達できた「認識」だと思います。
聽濤さんの議論の中に、マルクスのこの文章の引用が一切ありません。この文章こそが、資本主義社会における生産力と生産関係の矛盾の本質を言い当てているのに、ここから離れた論考になっています。
聽濤さんの理論の危うさは、商品分析と貨幣の発展、労働力商品の分析、労働の二重性、商品の価値の源泉とは何かという最も基本的なところに対する理解の弱さに起因しているのではないかとも思います。
現代日本における資本主義を見ると、大企業は、生産力という点では力の衰えも見せながらも、株価をつり上げ、史上空前の儲けを上げ続けています。失われた30年と言われる状況も、巨大資本にとっては「成功物語」の中のひとつの現象だということだと思います。第一次産業の衰退、中山間地や農村・漁村の衰退、人口減少問題も、資本の利潤の追求として起こっている「成功物語」のひとつの現象だということです。
ぼくたちのように和歌山県北部の中山間地域に住んでいる人間にとっては、人口減少が地域の経済力の衰退と深くリンクし、地域の持続可能性さえ脅かされる危機に直面しているように見えています。しかし、それは巨大資本の利潤追求からいえば、切って捨ててしまえばいい問題なのだと思います。
「資本主義的生産を制限するのは資本そのもの」
なのです。利益追求のためには、切り捨てるべき地方があるのだということだと思います。資本主義の下での利潤追求は、資本主義が高度に発達すればするほど、寄生的になります。貨幣がさらに大きな貨幣を生み出せば、それが一番効率的ですから、ここに多くの巨大資本が魅力を感じているのは当たり前です。しかし、彼らは富の源泉が労働にあることを本能的に知っていますから、人間の労働が介在する商品生産を絶対に手放さないのだと思います。
日本社会の生産力の発展と生産関係の矛盾は、今や日本国民の生活の再生産さえ脅かすところまで、矛盾が激化し、一部の都市を除いて、地域が衰退するところまで進んでいると言っていいと思います。聽濤さんの議論には、こういう現実の日本社会に対する分析や言及がありません。こういうリアルな問題と格闘している友寄さんの論理の方が、はるかに現実を見据えたものになっているということだと思います。
生産力と生産関係の矛盾は、かつてなく増大し、この矛盾は、日本社会の存立まで蝕み始めているのであって、生産力が発展してもそれは生産関係を変えなかったなどという単純なものではないと思います。









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