発言のテーマ、決まる。

雑感

5月1日のメーデーで、日本共産党紀北地区委員会を代表して、挨拶をすることになっている。
何を話そうかと漠然と考えた。浮かんできたのは、入党したときのことだった。

今から48年前、、ぼくは、高校を卒業した同じ月の3月14日の夜、入党申込用紙に署名した。
3月の半ば、のその夜はまだ寒かった。薄明かりの中、2人の男性の後を付いて、路地を歩いてアパートの表に出た。
日本共産党の専従者の人のアパートの部屋だった。そこは、トイレが共同、お風呂は銭湯という条件のアパートだった。玄関で靴を脱いで、板の間の広いピロティのに廊下があり、この廊下は左右に伸びていた。この廊下に一定の間隔でドアが付いている。このドアを開けると、二畳の間と京間の六畳の間がある部屋に入ることができる。
令和の時代にはなさそうなアパートだ。現在で言えば、共同のリビングと独立した部屋(もちろん、バストイレ付き)があれば、シェアハウスになる。あるとすれば、こういう形だ。

寒い部屋にストーブを付けて話し合いが始まった。
「ぼくは、小林多喜二のような生き方はできません」
入党申込用紙を前に、ぼくはそう言った。
「そのようなことは求められないから」
「今の時代、命がけでなければ、日本共産党員にはなれないということではない」
「自分のことを優先してしまうと思います」
すすめてくれた人はニタリと笑った。やけにニンマリ、ニタニタ笑う人だった。
日本共産党に入って、そこに命を捧げる。ぼくが、日本共産党に抱いていたイメージはそういうものだった。妙にストイックだった。

その日を境に、ぼくは日本共産党員になった。
当時、ぼくが真剣に考えていたことの一つは、
「核戦争で人類は滅ぶかも知れない」
ということだった。冷戦の時代のなか、核兵器による軍拡競争はエスカレートしていた。しかし、当時、日本国憲法が改正され、アメリカの侵略戦争に日本が加担し、海外で戦争するなんてことは、想像していなかった。自分の生きている間に、日本が再び戦争をする国になることは、想像できなかった。

ところが、
高市さんは、4月12日の自民党の党大会で、
「立党から70年、ときは来た」
と発言し、さらに
「改正の発議について、何とか目処が立ったと言える状態で来年の党大会を迎えたい」
として、1年後の改憲発議に言及した。アメリカの要請にもとづく侵略戦争への加担。これが現代の新しい戦争の姿だ。

こういうことが、頭に浮かんできたので、明日のメーデーでは、このことを語ろうと思った。自分の話をしないと、話はリアリティを失うと思う。与えられた時間は3分らしい。

話す骨格ができたので、肩の荷が下りるような感覚になった。

雑感

Posted by 東芝 弘明