小説を読んだ

雑感

瀬戸内寂聴さんの小説と浅田次郎さんの読みかけの小説を読んだ。作家の文体は、人それぞれに違う。瀬戸内さんの『夏の終わり』という短編は、独り語りのような感じがした。街の描写も船の描写も最小限なのに、それでも情景が浮かんでくる。見事な力をもっている。昭和38年の作とあったので、ぼくがわずか3歳のころの世界を描いていることになる。ぼくが作品からイメージした世界は、かなり実際の昭和38年とは違うものになった。頭に浮かんでいたのはおそらくは1970年代の世界だっただろう。

浅田さんの読みかけの『一路』は、まだ物語が大きく動かない「序」のような部分なので、読むスピードが遅くなった。文章を書いていると、作家が使う漢字や言葉に反応してしまい、その都度、Geminiに聞いたりしてしまうので、余計に読むスピードが落ちてしまった。
浅田次郎さんは、小説の名人なので、『一路』という江戸時代末期の時代小説になると、言葉の言い回しも昔風の古風な物になり、使われる熟語も耳新しいものが多い。膨大な調べ物をし、それを自分の体内に血肉化しないと書けないような文章が目の前にある。

ただ、ぼくには江戸時代の知識がない。サラリと書かれている浅田さんの文章から、克明にイメージできない部分がある。誰か、『一路』という小説の世界を、映像化してくれないものかと思ってしまう。

昨日、映画『鉄道員(ぽっぽや)』のシーンを文章化してみた。高倉健さんの無言の「間」を、文章でどう表現するのかというのは、面白かったが難しい。健さんの変化して行く表情を同じように再現してもうまく行かない。台詞から台詞への「間」を文章で表現するとなると、映画とは全く違った表現が求められる。とにかく、表現の仕方が、映画と小説とは違うので、映画をそのまま再現するなどと言うのはできない。しかし、映画のようなカメラアイで表現していくと、映画にはできないような、カメラアイも出現する。

映画には、音響効果が使われる。悲しいシーンになると悲しそうな音楽が映像の中に忍び込んでいくが、小説では、そういうことはできない。そういう違いも見えて面白かった。

雑感

Posted by 東芝 弘明