日本国憲法こそが新しい
日本国憲法の改正を求める言い分の中に、70年間も憲法を改正していない国はないとか、時代も社会も変化している。憲法は古くなった。憲法改正が必要になっているというような言い方がなされている。
日本国憲法は、本当に古くなったのだろうか。
学校で習った日本国憲法の3原則というのを覚えているだろうか。
(1) 国民主権
(2) 基本的人権
(3) 平和主義
この3原則が古くなったのだろうか。
平和主義が古いという人はいるだろうけれど、国民主権と基本的人権は古くなったという人は少ないだろう。
日本共産党は、日本国憲法に対して3原則ではなくて5原則だと主張してきた。
(1)国民主権と国家主権
(2)恒久平和
(3)基本的人権の尊重
(4)議会制民主主義
(5)地方自治
1から3までは、学校で習ったものと表現の仕方は少し違うが同じことを言っている。3原則に入っていない国家主権というのは、大事な観点だと思われる。
4と5はどうだろう。
議会制民主主義と地方自治。この2つを原則に加えているのは、最初の3原則とともに、現憲法制定まで続いていた明治憲法には、未確立だったからだ。
戦前、議会制民主主義という仕組みは、極めて不十分だった。天皇は、法律と同じ権限をもった勅命で法律を発することができたし、明治憲法に規定されていない社会体制がいくつもあった。内閣総理大臣や御前会議、元老という規定も憲法にはなかった。国務大臣は天皇を補弼するという形になっていたので、国務大臣同士の横の連携は極めて薄かった。このような状況のもとでは、議会制民主主義は発展しなかった。地方自治については、都道府県知事は天皇の任命で国の官吏が着任する仕組みだった。市町村は、戦争の頃は普通選挙で選ばれた議員が議会を構成していた。いくつかの変遷を経て敗戦の2年前には、「市長は市会の推薦を受けて内務大臣が選任、町村長は町村会において選挙し府県知事認可、市町村長に市町村内の団体等に対する指示権付与」という形になった。これでは地方自治が確立しているとは言い難い。
議会制民主主義も地方自治も戦後はじめて確立したといっていいだろう。日本共産党の憲法5原則という主張は、日本国憲法の性格をよく捉えているのではないだろうか。この憲法5原則は古くなったのだろうか。
憲法は古くなった。時代とともに変えるべきだという自民党の憲法改正案は、国民主権に制限をかけ、国民に家族観を押しつけ、基本的人権については、「天賦人権論は止めよう、というのが私たち(自民党)の基本的考え方です」(片山さつき 自民党憲法改正草案の作成メンバー)ということで永久不可侵の権利であることを否定している。基本的人権は、「公益及び公の秩序」に反しないかぎり保障されるとした。これは、戦前の法律の範囲において保障されるとしていた大日本帝国憲法につながるものだ。天皇を元首にして、基本的人権に制限をかけ、このような規定をもつ憲法を守る義務を国民に課すという改正草案は、新しい時代にマッチしているのだろうか。
日本国憲法を踏襲している部分はあるものの、憲法3原則の基本に関わる部分でここまで大日本帝国憲法とよく似ているものになったら、70年前に全部改正された極めて古い憲法を復活することになる。日本国憲法を古いと批判しつつ、もっと古い憲法につくりかえようとする行為のどこが新しいのだろう。
日本国憲法が確立した憲法5原則は、全く古くなっていない。日本国憲法が規定している国づくりの目標は、憲法改正を求めてきた自民党によって阻まれてきた。憲法学者の奥平康弘(故人)さんは、「日本国憲法は未完の大器」だといい、作家の大江健三郎さんは、「日本国憲法にもとづく国づくり」を求めている。ここにこそ日本国憲法をとりまく現状がある。日本国憲法を具体化すると新しい日本がたち上ってくる。ここにこそ日本の未来があるのではないだろうか。
70年経っても日本国憲法が古くならないのはなぜか。それは、あの焼け野原で日本国憲法が、実現していない理想をかかげたからにほかならない。憲法の示した理想を具体的な国づくりの中に実現しよう。これが日本国憲法の精神だった。自民党はこの国づくりをサボタージュしただけでなく、憲法に合致しない法律をたくさん作り政治を実行してきた。子どもの命を守るべき保育所で死亡事故がたくさん発生するというのは、憲法の精神が生きていない証拠でもある。国民主権を実感できず、政治が政治屋によって動かされている現実は、憲法の精神が生かされていない証拠ではないか。そういうものを憲法の精神に立って作り変えながら国の発展をめざす。この道を一歩一歩進めていけば、明るい未来が見えてくる。それは、経済政策的にいえば、新自由主義との決別にもなる。
ディスカッション
コメント一覧
まあ、思想的な内容なので、内容についてはとやかく言いません。ただ、憲法に「新しい」とか「古い」という表現はイマイチ。
日本国憲法については、不具合点がいくつかあるので改正が必要です。
不具合の筆頭が9条。その次が、2院政の問題。参議院なんか無駄なので無くすべき。
あと、改正の手続きのハードルが高すぎる。
憲法でも民法でも単なる法律なので、その都度変更すべきです。
紙に書いた文章を直すのは簡単ですよ。紙に書いたとおりの社会を維持することは困難を極める。
古い、新しいにこだわったのは、日本国憲法は古くなったと盛んにキャンペーンを張っているからです。トリノさんは、自分の考え方を中心にいつも議論をすすめる傾向があります。そういう議論の仕方ではなくて、現実に日本社会の中で憲法改正に力を持っている自民党の憲法改正草案がどういう内容なのかを踏まえて議論すべきだと思います。
現実世界の憲法改正を論じているのですから。もちろん自民党の憲法改正の議論の一つは9条ですが、国民主権や基本的人権、個人の尊厳などの問題が改正の中心に座っています。戒厳令をしくような力も権力に与えようとしています。焦点はここにあります。
僕は自民党の憲法改正草案について一言も論じていません。現在の日本国憲法の問題点を論じているのです。
三権分立制を採用している日本国憲法を、現実に合ったもにしないと、国民の信頼性が揺らぎ法治国家としてよくないと主張しているのです。
ここのトピックスは、日本国憲法を読んだ東芝さんの感想であり、一つの思想なのでとやかく言いません。
ただ、憲法9条の文章はどこから読んでも現実と合致していなので、すみやかに改正するのが立法府たる国会の役目です。
例えば、かつらぎ町の古い条例に「かつらぎ町民は犯罪を犯す人がいないので、警察署を設置しない」というのがあったとします。
現実には、警察署があり現実とは違う。・・・でどうするか?警察署撤去するか?条例を変更するか?町会議員はしらんぷり。
まあたとえ話ですが、それと同じようなのが、現在の国会議員の連中です。馬鹿が国会議員になると困るのよねぇ~法治国家の基本より思想や信条を優先するアホが多い。日本国憲法も読まずに国会議員になるやつが多すぎるのよ。
法治国家というのは、憲法があり、それに基づく法律があるという国です。
自民党の憲法改正草案を問題にするのは、安倍自民党政権が、憲法改正を正面から掲げ、しかも国民主権と基本的人権、恒久平和という憲法の原則を変えようとしているからです。憲法改正の現実的可能性は、ここにあります。論じざるを得ない。この中に憲法9条の問題があるということです。
トリノさんのたとえ話。もう少し現実的な例はないですか。
憲法9条には、
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
国際紛争の解決手段には、武力行使を放棄する趣旨です。つまり個別的自衛権もみとめられません。当然です。国際紛争の解決に武力を行使できないので・・・
その上に、
「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
武力行使しないのだから、兵力を持たない。
非現実的な文章です。間違った文章といえます。
それでも正しいと考えるなら、論議しても無駄です。が、立法なる国会はそういう訳にはいけない。機動部隊編成も可能なぐらいな兵力を有している自衛隊が存在するのに、おかしいでしょう。
こういうのは、与党・野党問わず、まじめに憲法の間違いを修正する努力すべき問題。
まあ~自衛隊廃止を目指す共産党は、ある意味筋が通っているけど・・・笑。
国会議員の見識です。日本国が法治国家ならその間違った憲法を直さなければいけない。役にもたっていなく、守られてもいない法律をどうして守るのよ。馬鹿です。
「憲法9条を守れ」・・・はて?法律を守れと言っているだけでに聞こえます。はて?そんなに憲法9条が好きなら、お守りにして守ってくれてもいいですが、憲法にその間違った記述が存在するのはよくない。法治国家たる基本が揺らぐ可能性がある。
安保法案にしても、反対理由が憲法9条に違反する?・・・とっくに違反しているのに、なにをいまさら・・はい。レベルの低い奴らの意見です。
憲法=法律という議論をトリノさんから聞くたびに、「はあ」と思ってしまいます。議論すべき基礎がないのかな、と思います。
最高法規という規定とは何か。ということを踏まえて議論しないと憲法論にはなりません。
「憲法違反」という批判が、非常に重要なのは、日本が法治国家だからです。憲法を最高法規として、これを基準に法律が作られています。
憲法は、国家権力の手を縛り、法律は国民の権利を規制する、これが現代国家の成り立ちです。国民主権の国は、国民の権利を宣言し、権力者の手を縛るものになっています。日本国憲法もそういう規定になっています。これを立憲主義といいます。
トリノさんの論理はいつも、この基本点をごちゃ混ぜにしています。ので、社会には、人間が作ったルールがあります。このルールに従って議論をしないと議論がかみ合いません。いろはのいを踏まえないで、「『憲法9条を守れ』・・・はて?法律を守れと言っているだけでに聞こえます。はて?そんなに憲法9条が好きなら、お守りにして守ってくれてもいいですが、憲法にその間違った記述が存在するのはよくない。法治国家たる基本が揺らぐ可能性がある。」と書くのは、少々恥ずかしいと思います。
国民は、「憲法9条を守れ」といい、「憲法9条を守ろう」ともいいますが、厳密に言うと憲法9条を守らなければならないのは、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」です。
私は、時代に合わせ憲法も変わる事は必要だと思います。
堅持する事が目的ではなく国民の為の憲法なのだから
時代に合わせて変化すべきだと思います。
その為にも9条含め「議論」出来る状況は必要です。
議論も何もダメ!じゃ民主国家でも何でもないですからね。
議論し投票で決める。
これが民主国家の基本ではないでしょうか?
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」
憲法改正は、この憲法前文の原則を守り発展させる上で改正されるべきものです。
しかし、自民党は、憲法改正草案は、憲法3原則を破壊するようなとんでもないものになっています。自民党憲法改正草案は、国民主権に制限をかけ、国家が国民を支配できるようにし、基本的人権にも制限をかけて、国家に従わせる方向を示し、恒久平和をこわして戦争できるようにするというものです。憲法13条に日本国憲法の神髄があります。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」自民党は、この規定にさえ手を入れて、個人の尊厳を曖昧にしようとしています。このような意図をもつ憲法改正は、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」ということを覆そうとするものです。
自民党は、憲法をよりよい方向に発展させるというような動きをしてきませんでした。もし日本国憲法の精神をさらに発展させるという意図のみで憲法改正の議論をしていれば、日本国憲法は改正されていたと思います。そういうものであれば、誰も反対しませんから。本当の発展方向とは何か。それは、国民の基本的人権をより拡充するとともに、国民の暮らしを守り発展させる方向で充実を図ることです。
現実の政治の中で、憲法改正草案が自民党から出されているもとで、玉石混淆の憲法改正議論はできません。本当の発展方向も若干織り交ぜながら、憲法3原則を破壊しようとしているので、このようなごまかしの計画は全て打ち砕く必要があります。飴とムチで権力者が近づいて来る場合は、飴をもらってムチを受け入れてはなりません。まずは、憲法3原則を破壊する意図を打ち砕いて、日本国憲法の全ての条文を守り、憲法が規定する国をつくる努力を進めることが大切だと思います。日本国憲法に基づく国づくりが行われ、未来への展望が切りひらかれたら、さらに日本を発展させるために本当の意味での憲法改正もあると思います。
私は決して自民党の改憲案を支持しているのではなく
議論すら出来ない状況がおかしいと思うのです。
それぞれ意見のメリット・デメリットをディベートしていただき
それを聞いた国民が考えて行動すべきだと思います。
例えば9条を変更すべしとの発言だけで「軍靴の音が聞こえる」など
子供の喧嘩のような幼稚な事や「自衛隊を戦地に送るな」など
一部だけを切り取って主張するのは、正直勘弁してほしいというのが本音です。
軍隊は無い方がイイに決まってます。
原発も無いに越した事はありません。
それは、皆思う事です。
でも、それらが無かったら?その代替案は?
このポイントで野党には失望してるのが実情ではないでしょうか?
憲法論議に際して、国民主権と基本的人権、恒久平和という憲法3原則について、どう考えているのかという議論をすべきだと思います。
日本国憲法は、明治憲法の全面的改正案として帝国議会に上程され、帝国議会の最後の仕事として議論の末に可決成立したものです。
国民主権の確立も基本的人権の保障も、それが実現していなかった明治憲法を否定して実現したものです。この2つの原則と恒久平和の原則は一体のものでした。
憲法前文は、次の書き出しから始まっています。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
国民主権があれば、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることはない、という認識がこの規定には含まれています。
憲法改正をするというのであれば、まず、この憲法3原則を守るのかどうか、ここを議論すべきでしょう。憲法議論は、ここから始めるべきだと思います。
自民党の憲法改正草案は、戦争する国づくりをめざしているので、国民主権を制限し、国家が国民を支配する憲法に変え、さらに基本的人権に制限を加えようとしています。まさに日本国憲法改正は、この憲法3原則を焦点にして、議論が始まっているということです。
憲法9条を変えたら「軍靴の音が聞こえる」とか「自衛隊を戦地に送るな」となるのは、安倍内閣が、実際問題としてPKOや米軍の後方支援として自衛隊を海外に派兵しようとしているからです。こういう動きがなければ、憲法9条改正と言ってもこのような反応にはならないでしょう。現実的危険性があるがゆえにそういう反応になっているということです。
>憲法=法律という議論をトリノさんから聞くたびに、「はあ」と思ってしまいます。議論すべき基礎がないのかな、と思います。
基礎はあります。現実の世界情勢をもとに日本国が繁栄するような法体系です。また、日本国が法治国家としてなるような法体系を目指します。憲法であれ民法であれ、法律は法律であって同じものです。日本国憲法は確かに法体系の一番上ですが、絶対的なものではありません。そこに問題があるのなら当然変更すべきと考えます。
現在の世界情勢を考慮した場合、日本国には軍隊が必要です。よって憲法改正は必要です。自衛隊は日本軍にすべきと考えます。
それで、自衛隊が必要ないと考えるのでは、仕方ありません。認識が違いますので・・・笑。
それと、前から東芝さんが、日本国憲法を基準に考えているのは気づいていました。僕はそんな考えはできません。法律は国を治めるためのアイテムにしかすぎません。絶対的なものでもありません。役に立たないアイテムはすみやかに修正すべきと考えます。それが法治国家の本来の姿だと考えます。
憲法は、単なる法律ではありません。憲法は、国の基礎となる法であり、国家権力の手を縛るものです。憲法は、国民の権利を宣言し、国家権力に対して手を縛るものですから、権力に対する命令書でもあります。法律は、国家が国民の権利を制限するものです。
だから・・・法体系の一番上だと言ってるでしょう?国の法律を作るのに最初の大まかな内容を決めないとだめじゃないですか・・・笑。憲法を無視して刑法作ったらだめでしょう?法治国家の仕組みですよ。
それと、日本国憲法の9条について絞って問題点を書いてるんだけど・・・どうしてそこを避けるのでしょうか?おまけに自民党案なんか出てくるし・・・????
僕は現実と憲法9条の記載が乖離しすぎているので、改正が必要だと言っているだけですよ。
東芝さんは、いいや憲法が絶対だから将来自衛隊をなくすことを目指す。といえばそれでいいだけですよ。
そうすれば、まあ~思想の問題ですねぇ~どうしようもありませんで終わるのです。
余談ですが・・・憲法の日本語おかしくないですか?なんちゅうか、どこが悪いというわけじゃないけど、違和感のある文章なのよねぇ~なにかなぁ~美しくないのよね・・・文章が。
トリノさんは、具体的な現実の憲法改正を論じていないで、トリノさん流の憲法改正を論じているだけなので、かなり非現実的だと思います。現実世界における憲法改正は、憲法3原則を否定する自民党の憲法改正法案をめぐる議論にならざるを得ません。安倍さんたちは、最終的には、憲法9条を改正しようとしていますが、そのためにまず、国民の手を縛り、国家が国民を支配する仕組みを作って、憲法改正を推し進めようとしています。国民が気付いたときは、ものが言えなくなっているという状況を作らないと、憲法9条の改正はできないと思っているようです。
憲法9条の改正が必要だという人でも、国民主権と基本的人権を制限するのは反対ではないでしょうか。いま現実に問われているのは、安倍さんが熱望している非常事態宣言の問題です。この改正を許したら基本的人権が制限され、国家の命令に国民が従わなければならないという事態に陥ります。
「憲法9条を変えたい、変えて自衛隊を国防軍にしたいんだ、だから憲法改正だ」というような意見は、現実の動きを見ない非現実的な議論にならざるをえません。戦前の日本が戦争を遂行するために国民の権利を徹底的に制限したように、安倍内閣も国民の基本的人権の制限から憲法改正を始めようとしているのです。このことをみない憲法論議は、全く不毛だと思います。
なんか話の論点が色々合って
ボヤけてきましたね。
ワタナベさん
東芝さんとの論戦していると、昔学生だった頃、宗教団体の勧誘を思い浮かべてしまいます。東芝さんの憲法改正反対論は、ある条件でのみ通用する論理であって、多様性のある考えを排除することにより成り立つものです。まあ~共産党の勉強会か何かで、そういうことを何度も教えられているのだと・・・笑。
東芝さんと僕の論点がズレルのは、僕が東芝さんの土俵に上がらないからです。どうしてか?簡単です。東芝さんの特殊条件の土俵に上がると負けるのよ。宗教と勧誘と同じで、その宗教の教義の世界に入るとその宗教は正しいものと同じで、共産党のある考えの条件を受け入れてしまうと、東芝さんの考えは正しくなります。
簡単に言うと、「憲法9条が正いもので、戦後の平和に貢献している」と仮定してしまうと、東芝さんの論理は正しいものです。だから僕は、その土俵の根幹を批判しているのです。
憲法9条の問題は、究極に言えば憲法を改正するか、自衛隊を解散するかです。簡単なことなのですが、自衛隊を無くすと言わずに憲法改正反対するものだから、おかしいのよ。たしか・・・「連合政府樹立の際は、国民の合意を得つつ、自衛隊解体を目指す。」でしたか?・・・まあ~寝言のような妄言です。
トリノさんは、国民主権と基本的人権を破壊して、憲法9条改正をしようとしている自民党の動きを見ないで、空想的な議論をしています。空想的な議論をする気はないので、ぼくは、あえて現実の日本で起こっている憲法改正の動きを伝えているのです。
現実の日本の政治で重大な問題になっているのは、国民の権利を保障し国家の手を縛っている日本国憲法を踏みにじって、国家が国民の権利を制限し、支配下に置くことを通じて戦争を準備しているところにあります。
こういう動きをしているからこそ、圧倒的多数の憲法学者が、自公政権が強行した平和安全保障法という戦争法に対して、断固たる反対を表明しているのです。憲法9条を変えるのかどうか、という理論的で単純な議論が議論の焦点になっているのではありません。思考実験や思考の遊戯をしているのではないのです。
現実の動きを見ないで、思考の遊戯で憲法改正を論じ、憲法9条を変えるべきだというのは、結局は、反動化する日本の動きに無自覚的に参加し協力することになります。
それは、思考の遊戯だということで責任なしとはならないと思います。
憲法の国民主権と基本的人権と9条は別物です。それと東芝さんの土俵に上がることはできません。ある条件下という限定的な世界では、確かに東芝さんが正しい。その条件とは「日本国憲法が正しい」です。
まあ、言えば日本国憲法に対する論議は行いますが、日本国憲法が正しいという条件での論議は遠慮させていただきます。負けますので・・・笑。また無意味ですので・・・
宗教と同じです。イスラム教でもキリスト教でも仏教でもそうです。すべて正しい。もちろん、各宗教の教義が正しいとした場合のみ・・・そういう条件下だけね。
つまり、東芝さんの論理は間違っていませんよ。ある特殊条件のみにおいてね。東芝さん自身は、自分の論理が間違っていないと信じているはずです。宗教家と同じ。
ただ、その条件を信じない僕のようなものからすると、間違っていると思います。
こういうのは難しいですよ。いくら論戦しても基本的な所が違うもんだから意見が合うことはありません。
例えば、WindowsとMacの話は、お互い合ったでしょう?「Windowsがクソだということ」・・・ある条件下外の話題だからです。・・・笑。