民主的な社会に向かうように
安倍元総理の訃報にふれて
安倍元首相が、銃撃され亡くなられた。手製の銃によるテロという衝撃的な事件でした。
ぼくは、映像や記事でのみ安倍晋三さんという人物を知るだけなので、実際の安倍晋三さんという人物を見たこともなければ、人としての姿を知っているわけでもありません。したがって、亡くなられた故人に対し、付き合いのあった人物に抱くような感情を持てないというのが、自分の中にある気持ちです。
人間というのは、多面的なので、プライベートのことも含め、安倍元首相と深く関係していた人々の無念な思い、悲しい思いは、親しかった人が亡くなったときに抱く思いをつなげて想像することしかできませんが、このような事件で亡くなった衝撃は深く、言葉にできない悲しみは大きいと思います。ご冥福をお祈りしたいと思います。
事件は、参議院選挙の街頭演説の最中に起こりました。言論が最も大切にされ、日本の現在と未来のかかった選挙戦の中で、テロ事件が起こったことに対して、許しがたいという思いとともに、日本のこれからの政治や社会にとって、さらに日本社会が悪い方向に向かうのではないかという漠然とした不安もあります。
民主的な世の中をつくり言論が保障される日本になるよう、地方議員としてできることをしたいと思います。
日本共産党の志位委員長は、街頭演説でも談話でも「心からのお悔やみを申し上げたいと思います。安倍さんと私は政治的に立場を異にしておりましたが、同じ年に生まれて、当選も同期です。同時代を共に生きた者として、大変悲しく、寂しい思いです」という趣旨のことを語りました。国会で、実際に安倍さんと向き合ってきた人として、実感のこもった言葉だと思いました。
この志位さんの発言に対して、Twitterには「裏では笑っているかも。。。。」というコメントが書き込まれていました。ほんの短いコメントですが、これは、志位さんの発言に対する心ない批判だと思います。
「裏では笑っているかも。。。。」というコメントの何がいけないのか。
これは人格攻撃なのかどうかを議論すると、意見は分かれると思います。短いので難しいです。
以下はぼくのコメントに対する感想です。
志位さんの安倍さんの死去に触れた言葉は、率直で深い思いをもっていると思われる発言に対して、コメントは志位さんの気持ちに踏みにじるものだと感じます。こういうコメントを読むと怒りが湧いてきます。このコメントには、亡くなられた安倍元首相への思いも感じられないとも思いました。
ぼくは、以前から、政治的に対立している意見に対しては、人格攻撃をしてはならないと思ってきました。安倍さんへの批判の中には、人格を攻撃するものもありました。そういう批判の仕方はだめだろうとも思ってきました。
批判の仕方については、ユーモアや皮肉の混じったものもあり、何が人格を攻撃するものかという線引きはなかなか難しいと思います。どこまでが許容範囲で、ここからは許せないなどという境界線なんて、現実の物事にはないですから。固定した境界線がないのは、相手に対する批判の仕方につきまとう問題だと思います。日本の現実の内閣総理大臣だった安倍さんへの批判は、大きな権力をもった人物に対する批判という側面があるので、安倍さんが推し進めた政治を「アベ政治」という表現で表したことなどは、分かりやすく物事を伝えるという点では、許されるものだったと思います。
安倍元総理は亡くなられました。今後、安倍内閣の評価は歴史的にも問われると思います。しかし、今はそれをすべき時期ではないと思います。
人格攻撃が横行するネットの風潮がこわい
ネット上には、相手の人格を平気で攻撃する意見が横行しています。今回の事件と相手の人格を徹底的に攻撃し、貶める風潮とはつながっていると思います。こういう風潮が直接犯行に結びつくものだとは思わないし、言論と暴力には大きな溝があるとも思います。しかし、相手を平気で傷つけるという日本のネットの状況が、暴力を生み出す土壌になっているとは思います。
最近、日本共産党の街頭演説に対し、日本共産党の言論や存在を否定するかのような妨害行為が散見されます。平気で政党の存在や候補者や議員の存在を否定する言動が、街頭演説の場面で現れたりしています。寛容のない社会になって、対立が激化し、相手を否定したい気持ちが社会に具体的に現れてくるのは、恐ろしいことだと思っています。
このような風潮の中、ぼくは、自分の発する情報が、相手の人格を攻撃するものでないのかどうか。いつも自制的に考える習慣を身につけることは、極めて重要ではないかと思ってきました。
ぼくは、言論は批判しても、人格攻撃はしないという習慣は、ネット上の最小限のエチケットだと思っていますが、そういうルールにはなっていないのが現実です。Twitterは、本名でないアカウントが多く、発言の気楽さがあります。しかし、寄せられるコメントには、人格攻撃もあふれ、デマと悪罵を投げつけているものもあります。まともにコメントを返しても建設的な対話にはならないことも多いですね。
相手の言論を否定したい衝動が、相手の人格を否定することにつながるのだと思います。人格は尊重する。その上に立って言論は批判するというのが、議論の仕方のルールにすべきであって、これは議論とは何なのかということに行き着くものだと思っています。
日本の子育てに当たり前のようにある「あなたをこんな子どもに育てた覚えはありません」というのは、明らかに子どもの人格を全面的に否定する言葉です。こういうものの見方は日本の文化の中に潜んでいます。人格攻撃をしないというのは、自分に課せられた大きな課題だと思っています。文章で議論をしているとき、人格を攻撃するような文章を書き、「これは人格攻撃だよな」となって、思いとどまり書き直すことがあります。人格を攻撃する考え方が自分の中から出てこようとするのを戒めるというのが、ぼくの現実です。
参議院議員で現在候補者の大門みきしさんの国会論戦、山添拓さんの国会論戦などは、人格攻撃のない論戦だと思います。人の良い面を見ながら論戦をする。論理は否定するが人間の存在は否定しない。という方々の論戦からも学びたいと思っています。
ディスカッション
コメント一覧
「裏では笑っているかも。。。。」
と言うのが何故いけないのか。それは現実に人が死んでいる訳で、その事に対する想像力の欠如を感じる。人の死を弄んでいる様に感じるのだ。遊びの感覚で書いている様で歪な人間性と断じざるをえない。多分、本の1冊も読んだ事の無い人物であろう。人の死を考える際には、先ず、それが他の何にも代えられない峻厳なものである事に想像力を働かさなくてはならない。遊び感覚でワンフレーズでシニカルに言う事ではない。志位委員長を侮辱したつもりかもしれないが実は安倍さんを侮辱している事が分からないのであろうか。
多分、子供だろう。
最近の言葉は軽い、と感じる。ネットで飛び交っている言葉が軽いのだ。何故この様な事になっているのか。それは人が本を読まなくなっているからではないだろうか。情報をネットで探し、一応分かったつもりでいる。違うのだ。日本の古典、世界の古典、現代文学、それらを実物の本を手にして読まなければならない。そして想像力を鍛える。エンターテインメントから初めて(SFから始めても良い)、本の面白さに慣れたら、ちょっと取っつきにくい哲学の本を読んでみると良い。実はエンターテインメントを書いている人物が凄い哲学者であったりする。例えば筒井康隆などはハイデガーを読み込む為の指南書を書いている。そういう風に読書をサポートして呉れる人がいるのだ。
松本清張は「葉脈」(ようみゃく、子供は読めないかもしれないので読み方を書いておきました)の人になりなさい、という言葉を残した。
1つの本に出合ったらそこにとどまるのではなくてそこから触手を伸ばして此れも読んでみよう、あれも読みたいという風になる訳だ。読書という旅の始まりである。ハイデガーを例に出したが、ハイデガーに留まらずにハイデガーの批判本があるからそれを読めと教えて呉れる人もいる。
つまり、世界観が広がるのである。子供こそ本を読むべきであって子供時代の読書体験というのは大変に大事だ。そういう風に読書経験を積んでおくと、
「裏では笑っているかも。。。。」
などという貧弱な想像力の欠片もない様な言葉が出て来る訳がないのだ。「裏では~」と書いた人よ、その言葉を天国に召された安倍晋三さんにもあなた言えますか? 想像してみなさい。安部さんは何と言うでしょうね。多分あなた叱られますよ。それが大人が子供に対する態度というものです。反省しなさい。