未来は今生きている人々の努力によってつくられる
綱領学習について、レジメを作るべきだという話が出たのでレジメを作成した。資料だけで話をしようとしていたので、分かりやすくするという点で改善ができると思われる。章ごとには見出しが書かれているが項については、見出しがないので見出しを作り、さらに文章ごとに要約した見出しをさらに加えた。
綱領は、戦前の党のたたかいと現代日本の特質を分析し、国際社会を分析したあとで、日本における社会変革の道筋をしめし、最後に未来社会論を展開している。綱領は「公然と打ち立てられた旗」であり、文章は簡潔にかつ厳密に書かれているものだ。綱領を作るためには、事実に基づく社会の分析が必要であり、科学的社会主義の世界観が問われることになる。
短い文章の中に日本共産党がたたかいで得た深い認識に貫かれている。未来を見通したたたかいの指標となる文章は、できるだけ生命力の長いもにになるよう配慮されている。2020年綱領は中国と決別し、中国は社会主義でないことを明らかにした。このことによって、発達した資本主義における社会主義・共産主義の未来が、資本主義の社会を通じて確立し、たたかい取られてきた諸制度と価値ある成果を全面的に受け継ぐものになることを鮮明にすることができた。
未来社会は、今の日本社会のなかで生まれてきた価値ある成果を受け継ぐものになる。綱領では、受け継ぐものとして、資本主義のもとでつくりだされた高度な生産力、経済を社会的に規制・管理するしくみ、国民の生活と権利を守るルール、自由と民主主義の諸制度、国民のたたかいの歴史的経験、人間の豊かな個性などの成果という形で提示している。国民のさまざまな努力によって生み出されたものの先に未来社会がある。
これらを実現するカギは生産手段の社会化にある。商品を生産するうえで必要な生産手段を社会の手に移して、生産の仕組みの中で労働者が真の主人公になるようにするというのが、生産手段の社会化だ。具体的に一度に生産手段の社会化が実現する訳ではない。市場経済を通じて社会主義へというプロセスの中で、どれだけ生産手段が社会化されるかは、そのときの国民の運動による。
しかも、生産手段の社会化という内容は、長い試行錯誤の中で確立するものだと日本共産党は考えている。民主主義革命が実現した後、国民の合意によって社会主義・共産主義に進もうとなったときに日本における社会主義への道が開かれる。これは当然国政選挙を通じて実現する。選挙で実現した政権は、社会主義的な改革に取り組んでいくが、この取り組みには長いプロセスが必要になる。
生産手段を社会の手に移すとひと言で言うが、その形態は多様性のあるものになると思われる。しかも組織の中で労働者が主人公になる仕組みは、簡単には確立しない。資本主義社会の中にある多くの組織は、ピラミッド型になっており、組織の意思決定はそのピラミッドの上層部の意思決定による。こういう仕組みのまま、生産手段を社会化することは出来ないだろう。民主的で自由な意思決定が貫かれる組織の在り方、1人の労働者の提案が大切にされ生かされる仕組みを生み出すのには時間がかかる。
資本主義社会の中でそういう組織はないのかというとないとは言えない。オーケストラの指揮者と演奏家の関係、自治会、町内会の運営の仕組みなどの中には、民主的になっている例もある。トップが独断的な権限をもっていない組織。一人一人の提案や意思が大切にされる組織は、資本主義社会の中でも生まれつつあるだろう。日本共産党そのものの運営も、そういう組織形態をめざしているといっていいだろう。
生産手段の社会化を現実のものにするためには、一人一人の人間の能力や個性が豊かに発展する土台が必要になる。社会主義に移行して、生産手段の社会化への努力とともに、労働時間の抜本的な短縮が行われると、人間の自由な時間が拡大する。ゆったりした人間の生活の中には、豊かな地域が存在するだろう。人間交流の豊かな地域の中で、人間は、政治的にも文化的にも経済的にも社会的にも、自然との関係でも豊かになり、自由な時間の共有によって、人間のもっている能力が多面的に発展する条件が生まれてくる。
この力が生産手段の社会化を実現する基礎になると思われる。豊かな人間による豊かな個性が生かされる組織の仕組みが編み出されていく中で、労働者が生産過程における主人公になる時代がやってくる。マルクスは、指揮命令の形のはっきりした組織の中で仕事をしてきた人間の組織運営の形態をあらためるためには、何世代にもわたる改善が必要になるという考え方をもっていた。
日本共産党綱領は、社会主義的変革は長期の過程になるという見通しをもっているのは、こういうところにもある。人間は誤りも犯すだろうし、失敗も起こる。市場経済を通じて社会主義へという道によって始まる社会主義が、遠い将来、市場経済をなくす方向に行くのかどうかは、ぼくには分からない。市場経済を通じて社会主義へというプロセスは、資本主義的な交換関係である市場経済が広く残るということであり、資本主義的な生産形態も広く残ることを意味する。
労働時間の短縮も7時間制や6時間制、5時間制、週休3日制などがどのような形で具体化されていくのかは、未来の選択の中にある。人々は自分のために生き、自分らしく生き、同時にまわりの人々との交流を楽しみ豊かに生きる条件が広がってくる中で、労働と人間との関係を再構築する。生産は社会と人間、自然との調和の中で行われるように変化していく。
資本主義から社会主義への道は、国によって大きく違うだろう。今私たちがどのような社会をつくるかによって、社会主義の未来も変化する。安保法制反対のたたかいの中で、国民の中に個人の尊厳の尊重という憲法13条の大切さが改めて明らかになった。たたかいを通じて、自由と民主主義の各分野に新たな光が当たり、発展していく。ジェンダーフリーという考え方と課題が世界史的な日程に登場してきて、日本共産党の綱領に明記されるようになったのも、歴史の進歩の過程だと思われる。
自分たちの運動とたたかいが未来社会に生きる。自分たちの努力によって豊かな未来が切り開かれる。日本共産党の未来社会論は、このことも明らかにしている。未来は今生きている人々の努力によってつくられる。
ぼくは、ここに自分の生きている価値もあると感じている。
ディスカッション
コメント一覧
以前から強く思っているのだが、誰も答えてくれないので東芝さんにお尋ねします。
共産党は「戦い」あるいは「闘い」を何故、「たたかい」と書くのですか? 何か異様なものを感じます。「障がい者」「看護師」などなど、言葉狩りに泣く執筆者は多いと思われます。共産党までが「たたかい」と自主規制してどうするのですか?
運動をたたかいと表現するのは、階級社会のなかでは階級的な利害の対立があって、運動はたたかいの要素をもつという意味だと思っています。
日本から学んだというドイツの運動家の記事が赤旗に載ったことがあります。この方は、原発推進から自然エネルギーの転換という方針転換を企業との間で共有するために何をしたかというと、右手で相手の顔を叩きながら、左手で握手を求めてきたと書いていました。なるほどと思いました。
資本主義下での運動は、このドイツの運動家がいうようにすべきだと思います。たたかいというのは、右手で相手の顔をたたきながら、左手で握手を求めるということです。たたかいという視点を失ったら握手だけを求めることになると思います。これでは世の中は変わらないと思います。
何だか分かったようで分からん文章だ。
10回ぐらい読んで何とか理解しようと頑張ってみたが、やはり理解できぬ。
俺の頭が悪いのか、それとも、たたかい、たたかい、と、連続してたたかいを説明する東芝さんの文章に欠陥があるのか、どうもよく分からんのでこの事はなかった事にして思考停止しよう。
戦いや闘いとは書かかないで、「たたかい」と書くのかというのは、戦いは武力による戦いを意味として持つし、闘いは格闘技のようなイメージがあるからでしょうか。相手を破壊したりたたきのめしたりするのではなく、社会運動として世論の力で相手を追い込んでいくということで、非暴力の意味を込めてたたかいと書いているということです。この質問に答えていませんでした。
原発を例にしたので、他のところでも書いたのですが、原発を推進している企業は、原発に仕組みを知った上で原発は安全だと言っています。アメリカのウランを日本が政治の力で買い、同時に絶対にプルトニウムから核兵器はつくらないという約束をしています。アメリカは当初、普通の国だったらこういう約束はしないと思っていました。しかし、日本は対米従属と言う点でアメリカを絶対に裏切らないという態度を示し、ウランを買うことになりました。
原子力発電は、政治がらみです。ビジネスとしては成り立っていません。核兵器の製造を維持するためには、ウラン鉱を維持する必要があり、アメリカとしては安全にウランを売る必要があり、日本を選んだということです。アメリカが日本にはウランを売れなくなったと言ったら日本の原発は収束に向かうしかありません。
ウランが安く買えるのは、ここに理由があります。原子力の力でお湯を沸かして、その蒸気の力で電気を作っています。問題なのはウラン燃料です。非常に核分裂反応の効率が悪いので、中途半端な放射性廃棄物という燃えかすが残ります。これを人間の科学力で処理できないところに原発の大問題があります。燃えかすの処理コストを電力会社が引き受けたら、ビジネスとして成り立ちません。ここを切り離して、政府が管理するという形です。政府と言っても10万年先の意思決定に責任を負える訳がないので、極めて無責任な状態になっています。
この原発を止めるためには、たたかいが必要です。国民の世論と運動で、原発を廃止する勢力で政府をつくって、やめさせる必要があります。話せば分かるのであれば、最初から原発はつくられなかったと思います。
日本政府も原発をつくっている電力会社も、現在の科学技術では原発をコントロールできないし、使用済み核燃料を管理し処理することも出来ないのは、全部知っています。一番おろかなのは、この勢力に対して、科学の言葉で正しさを説いて説明し理解してもらうことです。そんなことをしても事態は変わらない。
こういう説明は、国民に対して行うべきです。多くの国民が原発停止という理解になれば、原発を推進することは出来なくなります。
資本の側にあるのは、儲けを増やしたいということだけです。その思いにしがみついて、安倍政治にくっついて海外で原発ビジネスに血眼になった東芝という会社は、破綻寸前まで追い込まれました。こうなったのも利潤第一という企業の論理に原因があると思います。東芝は、安倍さんのほら吹き外交を信じて痛い目にあったということだと思います。利益が上がるんであれば、地球環境が破壊されても知ったことか。ここに資本の論理があります。
この資本の論理をやめさせるためには、たたかいが必要であり、相手を追い込んで、別の選択肢があるんだと言うことをビジネス的にも理解させる必要があるということです。右手で殴りながら左手で握手を求めるというのは、原発の場合、会社をもうこれ以上推進できないところまで追い込みながら、再生可能エネルギーに転換すれば、あなた方が生きていく道はあるんですよということを提示するということです。ドイツは、実際にこういうたたかいかたをして、原発にしがみつく企業の方針を転換させました。
日本の原発推進は、政府がウランを買わなくなり、原発関係の法律を変えれば、民間企業の原子力発電を止められます。70年代の公害反対の運動も、政治を変えることによって、環境基準を変えさせて企業をして守らなければならないところに追い込んで改善が実現しました。これは、多くの経済闘争も、政治闘争として決着が着くということでもあります。企業の横暴から国民の命を守るためには、政治の世界で社会的な制度をつくり、企業を縛り付ける必要があるということです。社会制度化しないと暴走する企業をとめることはできません。
原発の事はさておき、
「これは、多くの経済闘争も、政治闘争として決着が着くということでもあります」
と、闘うという言葉が出て来るじゃありませんか。自家撞着じゃありませんか?
では、巨人阪神戦もダメなんですか? 武力とは広辞苑によれば
「武勇の力、また、軍隊の力。兵力。」
とありますが、巨人も阪神も武力を持った軍隊なんですかね。まあ、以前はよく乱闘騒ぎがあったもんですが(最近、ないなあ)今はまったくそんなものはない。
俺が言いたいのは原発の事ではなく、東芝さんも認めているように「戦い」にはたしかに武力の意味があるが、巨人阪神戦のように、平和なスポーツにも戦いという言葉が普通に世の中に浸透しているという事です。巨人阪神戦だからといってそら戦争だあ、機関銃を用意せいという人がいるでしょうか。「さあ、始まりました伝統の一戦巨人阪神戦です」とアナウンサーもゆうとるじゃないの。これは間違いなんですか? スポーツ紙に「伝統のたたかい、巨人阪神、3連たたかい、初たたかいは7対5で阪神が勝ちました」とは書かないし、書いたらなんのこっちゃ、となります。
だから始めに書いたように、共産党は「戦い」という言葉に戦争のイメージがあるため戦いを「たたかい」と自主規制しているんじゃないか、と書いた訳です。然し、「戦い」は必ずしも戦争をイメージするんじゃなく、普通に世間一般に浸透している言葉なのに、自意識過剰に「たたかい」と自主規制しているところになんかいびつさを感じる訳です。これは俺だけじゃないと思いますよ。
あるいは、これは考え過ぎかもしれんけれども、全共闘世代が使っていた
「斗」
という字に何か悪いイメージがあってそれを葬り去りたいという事で
「たたかい」
という事になったんですかね?
全共闘というか、その前の中核派、革マル派、民生同盟などの血で血を洗う斗いのイメージといったほうがいいのか、そのイメージの払拭でしょうか。
だとしたら、それは逆のイメージしかありませんよ。木は森に隠せというでしょう。「たたかい」と書くほどにそれらのイメージを喚起させる事にしかならない。
だから、戦いは戦いと素直に書いた方が変な連想をさせなくてすむのですがね。
なるほど。ぼくはどちらかというと闘いでいいかなと思うところがあるし、選挙戦でも全然大丈夫です。最近、党内でも選挙の出発のときのセレモニーを出発式という傾向があります。出陣式でいいのになあと思いつつ、出発式としています。
階級闘争という言葉を使っていますが、非暴力です。自分との闘いも「闘い」がいいと思います。以後あまり気にせず書きます。
民生同盟は民青同盟でした。訂正します。
編集機能は、1度パソコンをシャットダウンさせると、使えないようになってますね。
そうなんですか。そこがもしかしたら管理者とゲストの違いかも知れません。