事物は弁証法的に存在している
哲学の講義をするので、レジメと資料を作成した。唯物論と弁証法が講義の中心。準備して改めて感じたのは、すべての物質は弁証法的に存在しているということだ。すべての事物は複雑に絡み合い、影響し合いながら存在していて、そこには相反する傾向の絡み合いという状態にある。人間の認識は、複雑で多重的な連関と連鎖を一度に全部認識することは不可能であり、事物の弁証法的な存在をなかなか理解できない。
弁証法的方法とは、事物がたえず運動の中にあり、生成・消滅・発展の過程の中にあることを認め、事物の運動を事実に基づいて深く把握するように努力することを意味する。
たとえば空間。
空間は、物質と物質が存在してはじめてできるものであり、物資の存在の仕方に深く関わっている。物質と物質との関係で空間ができるということ、その空間は物質の質量によって歪んだりすること、つまり空間は箱ではなく、空間そのものが物質との関係で変化するものであること。
例えば時間。
時間は物質の運動の仕方と深く関連しており、物質の運動が高速に近づけば近づくほど、その物質の運動の時間はゆっくり進むようになる。時間も物質の運動によって変化するということだ。
弁証法というのは、物質の運動の仕方、存在の仕方を言い表す言葉であり、すべての物質は弁証法的に運動し存在しているといえる。事物の具体的な存在の仕方や運動の法則を明らかにしていくことは、事物を貫いている弁証法を具体的に理解することに等しい。
哲学は、ものの見方考え方の学問だという。しかし、「見方」とよばれているが、それは解釈論ではないということだ。すべての事物は弁証法的に運動しており、すべての事物は弁証法的に存在している。ということだ。
このようにして成り立っている物質の運動と存在を、人間は言葉を活用しながら把握している。人間の認識を組み立てている人間の意識は、言葉によって表現される。人間は外界からの刺激を体全体で把握している。この体全体によって生じた感覚は、感覚や意識や感情、認識とよばれる。これらは、外界からの反映として形成されている。生物による外界からの反映は、極めて能動的だ。したがって反映という言葉を、受け身的なイメージで捕らえてはならない。
人間による外界の反映は、極めて能動的に行われている。人間の感覚や意識、感情や認識というのは、無自覚的な段階から、人間の感覚器官の全体を活用して、極めて能動的に外界を反映する。
また、角度を変えれば人間は、人間の歴史を通じて蓄積してきた言語、概念を活用しながら外界を把握し認識しているといえる。歴史的に形成されてきた言語や概念も弁証法的に存在している。
弁証法は、客観的事物の弁証法と人間の言葉、概念の弁証法といういう2つのことによって成り立っている。なぜそうなっているのかといえば、客観的な事物が弁証法的に存在しているところに根源がある。客観的な事物の反映である言語と概念も弁証法的に存在するのは、いわば当たり前だということだ。
言語と概念は、現実の世界を近似的に反映する。
現実の物質のあり方を、言葉と概念を通じて表現し、自分以外の第三者に伝えようとする場合、100%正確に事物のありのままの姿を伝えることは不可能だ。言語と概念を通じて、さらに映像や動画を通じて(映像や動画も最近はデジタル。アナログ時代も含めてこれらもある種、言語と同じ。デジタルは電気信号。これも言語の一種だと言っていい。)伝えようとするが、どこまでいってもそれは、近似的なものにならざるを得ない。それは、言語と概念が反映の産物だからに他ならない。
面白いのは、言語と概念の弁証法には、言語と概念が独自にもつ弁証法があるということだ。たとえば赤い色を「赤」という言葉で表すという行為は、その物の色は赤であって黄色でも白でも青でもないということを言外に含んでいる。「赤」と表現するということは、物事を規定するということであり、規定するという行為は、同時に否定を含むということになる。このように言葉は、言葉そのものがもつ弁証法を含んでいるということだ。言葉と概念がもつ弁証法というのも極めて豊かなものであり、事物を近似的に反映する言葉、概念によって現実の現象を表そうとするときに、ものによっては形容矛盾を引き起こすことがあるということでもある。
弁証法は形容矛盾を引き起こすかどうかという論争も過去にあったが、近似的にのみ事物を反映できない言語は、どうしても形容矛盾を引き起こす可能性があるということだろう。事物は相反する2つの傾向を一つのものの中に併せ持っている場合があり、発見した新しい事物の運動の仕方、存在の仕方を言い表すためには、的確な表現形式が編み出されるまでは、形容矛盾を引き起こすことはありうる。言葉が現実の物質の運動の仕方、物質の存在の仕方を的確に反映した表現になっているかどうかが問題であって、言語や概念が形容矛盾を引き起こすか否かを厳密にあれこれ論じるのはあまり意味がないと思われる。
現実の事物の弁証法と言葉、概念のもつ弁証法。この2つは区別して理解する必要がある。現実の事物の弁証法は、自然科学や社会科学が進めば進むほど豊かに理解されるものであり、言葉、概念の弁証法は、それにともなって豊かになるものである。
最近の医学の発展によって、人間は脳だけで感情が生まれているものではなく、人間の感覚器官を通じて、脳を含め感情や感覚、意識、認識が生まれることを明らかにしつつある。腸は第2の脳、皮膚は第3の脳だと言われている。意識も、人間は、意識する7秒前にすでに脳が判断しているという研究もある。多くの人間の行動は、無自覚の内に判断されている。
多面的な人間の意識は、外界からの刺激に対する能動的な反映の結果であり、人間が意識する前にすでの判断されているというのはかなり面白い。こういうことがわかり始めた大前提は、唯物論にある。精神と物質の関係を切り離して、精神が主であると思っている研究からは、たどり着けなかった豊かな精神の仕組みを、現在の医学は唯物論的に解き明かしつつある。
唯物論の立場に立つことが、真理に近づく道であり、この道を進んでいけば先に待っているのは、豊かな弁証法的な世界だということだ。
整理し切れていないことを書いた感じになった。読んで訳が分からない人は、読んだ人が悪いのではなく、書き手のぼくが表現しきれなかったからだ。こういう文章を書いてアップする側にすべての原因がある。というのは言い訳かな。
もちろん、哲学の講義ではこんな話はしない。
ディスカッション
コメント一覧
腸が「第二の脳」と言われることについて調べてみました。
脳の大脳皮質にはおよそ150億の神経細胞があると言われています。一方、腸の神経細胞の数は約1億あるといわれています。腸の神経細胞の数は脳に次いで2番目の多さです。また、腸は脳と約2000本の神経線維でつながっていて、独自の神経ネットワークを持っています。独自の神経ネットワーク(腸管神経系)があるため、脳からの指令がなくても腸を動かすことができます。腸管神経系の構造は、脳の神経ネットワークに似ていることから、腸は「第二の脳」と呼ばれています。
以上が、腸が「第二の脳」と呼ばれる理由です。
腸と脳の関係ですが、上述したように腸は脳に似た神経ネットワークを持っているため、脳からの指令が無くても独立して活動することが出来ます。脳に次ぐ多さの神経細胞を持つ腸は、快・不快や安心・不安といった感情にも深く関わっています。例えば、ストレスを感じるとお腹が痛くなり、便意をもよおします。これは脳が自律神経を介して、腸にストレスの刺激を伝えるからです(脳➔腸)。逆に、腸に病原菌が感染すると、脳で不安感が増すとの研究報告があります(腸➔脳)。それから、脳で感じる食欲が、消化管から放出されるホルモンに関与しています。このように腸の状態が脳の機能にも影響を及ぼすこと(その逆も)を「腸脳相関」と呼びます。
つまり、腸と脳の関係は一方通行ではなく相互に影響し合っていて、そのことが感情を生み出すことにも影響をおよぼしているということです。
「腸は第二の脳」という言葉は知っていましたが、脳と腸の関係がこういうことだとは深く知りませんでした。いろいろ調べてみて大変勉強になりました。
相対性理論をよく理解していないようなので・・・時間の遅れは加速度によるものです。
静止状態と高速移動状態でも等速の場合、時間の進み方は同じです。静止状態から高速状態に加速するときに、静止状態からは時間が遅れるように見えるだけ。
つまり、その状態によって時間の進み方が違うだけで、個別の時間は同じように進む。
簡単に言うと、エベレストの頂上と海抜1メートルのでは、お互い静止していても時間の進み方違います。何が違うか?重力加速が違うからです。
トリノさんがそう書くので、Newtonの「ゼロからわかる相対性理論」を買いました。こういう知見に依拠しています。
昔、高校物理の教科書に、相対性論の公式が記載されていました。その公式を見ると、質量あるものが光速になると、質量が無限大になってしまうから「質量のあるものが光速に到達することはできない」・・・ということだと高校生の時に思ったのを覚えています。
質量のあるものが光速に近ずくほど質量が大ききなる・・・つまりその空間が歪むのです。と言っても・・・それを現実の社会で経験することはほとんどありません。もちろん物理学的には空間が歪むことは証明されています。有名な日食観測で太陽の重力により空間のゆがみが観測されているからです。100年以上前の話ですが・・・笑。
重力・・・加速度・・・同じものです。つまり強い加速度がかかった時に時間が遅くなるように見える。・・・それが一般相対性理論です。
ニュートンは、絶対空間という概念で力学を構築しましたが、アインシュタインは、光速を絶対的として相対性理論を完成させたのです。
ニュートンとアインシュタインを比べると、ニュートンの方が物理学の貢献度がやや上だと思いますが、アインシュタインもなぁ~・・・・天才よねぇ~・・・・
皮膚が第3の脳だという事に俺は着目した。
やっぱり、そうであったか。
オマンコしている時にチンポコが気持ちいいのではなくて実は脳が気持ちいいのだという説明を受けていたのだが、俺はどうしても納得できなかった。
皮膚が第3の脳なのであれば、矢張り、チンポコが気持ち良かった訳だ。
俺はどうしても、脳が気持ちいいのではなくて、チンポコが気持ちいいとしか感じられなかったので、東芝さんの説を聞いて納得した。
皮膚は第3の脳であった訳だ。
ぶはははははは。
そうすると、こないだ、東芝さんが書いておられた、
「細胞が喜ぶ」
という表現も納得できる訳だ。
吉行淳之介が
「細胞がふつふつとしてきた」
と書いたら、安岡章太郎が、
「お前は細胞、細胞というからいかんのだ」
という風に言ったら、吉行淳之介は、
「だって、そんな感じなんだもの」
と言っておったのは先見の明があった訳なのだなあ。
吉行淳之介はHENTENSISUMUという事も書いている。
これはどういう意味かというと、
ま、難しいのでやめよう。
HENTENSISUMUではなくて、HENTENSISUMであった。
息抜きにこれでもどうぞ。
百万本のバラ 【久保田早紀】 高音質 – YouTube
最近の俺のお気に入りです。
なかなか気にいっております。
今日は雨です。
なんか、小説でも書いてみようかな。
俺は「骨とさつま揚げ -希望の人ー」
でも書いた通り、雨の日はわりかし好きなんですよ。なんだかロマンチックでいいじゃないですか。
あ、とか
う、とか
さつま揚げを入れて焼きそばを作りました。妻は絶賛していました。美味しかったです。
想像するに、作ったのは東芝さんですね。
奥様が絶賛した、という事は東芝さんが作って二人で喰ったっちゅう事だと感づきました。東芝さんは奥様思いの優しい人なんですね。ま、男の料理というものは旨いものですがね。美味しくて何よりです。
勘づき、の間違いでした。
いえいえ、鉄板焼きで妻が中心になって作りました。娘と3人で食べました。まだ真空パックが残っているので、もう一回できます。味のしっかりしたさつまあげで、ゴボウの味のしたのが美味しかったです。ありがとうございました。
妻は、返礼しなくていいの?と盛んに言っています。
物語は以外な展開をしましたね。
俺はてっきり東芝さんが奥様の為に台所に立ち、シナ鍋で焼きそばを作って差し上げたのだと思ったのですが、鉄板焼きとは想像できませんでした。
返礼品はここのブログで充分楽しませて貰っているので、お気を遣わずとも大丈夫です。人のブログに下らん事を書いたり、小説を書かせて貰う自由を与えて貰っているので充分なんです。以後宜しく。奥様の口にテープでも貼っといてください。
ぶはははははは。
向田邦子さんは、小学校時代、2年ほど鹿児島で生活をしていたようです。桜島の見える向かいの場所で。エッセイを読んでいるとさつま揚げのことも書いていました。小学校時代の女友だちと恩師に集まってもらって同窓会をしたことも書いていました。
向田邦子さんはいいですね。俺も好きです。エッセイが上手いですね。父親が厳しい人だったと聞いております。
エッセイの最後の1行がいい。この1行を書くために書いているという感じのものもあるが、最後の1行で話をキュッとしめる感じがある。
そうですね。そんな感じですね。
テーマが決まっており、例えば、最後に「神は細部に宿る」と言う事が言いたいがために書いた、という感じとか、どこか優しさが込められていますね。
作家の作品作法ですが、俺は商業誌に10年間投稿し続けたのですが、やはり作品を作る場合は、落ちを最初に設定する訳です。その為にいくつか出だしを作って持っておきます。そして、登場人物を(中心人物ですね)肉付けしていって、整合性に問題がないかみながら相関図を組み上げます。すると、ここは不必要だなというものが出てきます。それに気づいたら、あっさりとそこは捨てます。一応作品が出来上がったら、また落ちと、出だしを見比べてみて、平凡だな、とか、落ちと出だしが矛盾しているな、とか必ず出てくるので、いくつか書いておいた出だしに手を入れて書き直します。
肝腎なのは矢張り、「出だし」と「落ち」ですね。編集者が見るのは多分、小説の中身ではなく、この落ちと出だしだろうと思っています。編集者も忙しいであろうから、これは読むに値する作品であろうかと見る為にここをみているのではないかと思います。ですから、俺は先ず、出だしに心血を注ぎます。その為にプロットを沢山作ります。そのプロットを繋ぎ合わせて、作品は出来上がる訳ですが、それを読み通してどこが面白くないのか見ます。プロットはいくつかある訳ですから、ここが面白くないな、と思ったら別のプロットを嵌めてみます。
この様に作品は作ったら、捨てるものが以外に多いものなんですよ。
なんか、彫刻に似ていますね。
人によっては、プロットなんか気にせずいきなり出だしから書き始めて最後まで一気に書く、という人もいるようですが、それは天才だから出来る事であり、平凡な俺のような人間は矢張り、「設計図」がなくては作品は出来ません。
ブログのすべての記事がうまくいっているとは全く思っていませんが、テーマを鮮明にして、最後はもう一度テーマについて、短い言葉で切れ味よく終われば、文全体がしまるような気がしています。
いや、東芝さんのブログは小説とは違うので、全て文全体はうまくいっていると思いますよ。俺の想像では東芝さんは書くテーマが決まれば一気に書き上げているのではないかと思います。まあ、天才的ですね。しまっていると思います。
俺がここで書く「小説」は行き当たりばったりで、「設計図」なしで一気に書いています。ですからいくらか矛盾文が発生するんですが、それはそれでいいかなと思って書いています。まあ、申し訳ないですが遊びで書いています。
東芝さんも小説を書いてみた、という記事を読んだ記憶があるのですが、その記事がどこにあるのか、探してみたのですが分かりません。俺にも読ませて貰えませんか。
謎の人物の音楽でもどうぞ。
コーヒーを飲みながら聴くといいですよ。
スタンド・スティル(アルバムVersion):小椋 佳 – YouTube
なかなか、勉強に
なりましな。