一家の柱であった方の死
人の話をていねいに聞きたいと思っているので、今度作ったリーフの挨拶にも、「これからもたくさんの人にお話を聞きながらがんばります」と書いた。
人の話を聞く。人が話をしたくなるように、話を促す。身を乗り出して聞く。こういうことを繰り返したいと思っている。
自分の思いの丈を、存分に話すと何らかの快感がある。話をした後は「話を聞いていただいてありがとうございました」という感覚が残る。
ただし、話し上手な人というのはそんなにいない。人は、思うがままに話を始める。そのときに大事なのは、身を乗り出して聞くということだ。相手の話の世界に身をゆだねて、一緒に話の内容を考えると、その人の話が生き生き立ち上ってくる。
今日は、旦那さんの仕事を支えて生きてきた女性の話を聞かせていただいた。一家を支えていた男性が亡くなると、後に残るのは、その人が行っていた行為についての謎だ。人は、生きている間に、全てのことをまわりの人々に伝えているわけではない。側にいて、相談に乗り、寄り添っていたとしても、連れ合いが社会的な仕事や活動を担っている場合は、その全てを十分に知ることは出来ない。
一家の柱であった人が生きている時は、毎日派生してくる出来事に対し、その人自身が対応するので、家族の身には多くの重荷がのしかかるわけではない。大黒柱のようにして家業を背負っていた人が亡くなると、次の日から家業が残された家族にのしかかる。それらの仕事を整理していくプロセスは、亡くなった人との新しい付き合いのようなものになる。生きているときに聞けば即座に答えてくれるのに(実際に生きていれば聞くことはないのだけれど)、聞けないもどかしさの中で、その人が生きた意味をくり返し味わうことになる。
「死者は生者の中に生きる」
この言葉は、単なる形容詞的な美しい言葉ではなくて、生々しい内実を伴っている。
閑話休題
「赤旗」日曜版に3回に亘って連載された東京大学カプリ数物連携宇宙研究機構長の村山斉(ひとし)さんの記事が終了した。3回目の記事の中に“「万物は電子で」できていない”という話があった。
「学校で『万物は電子でできている』と習いましたよね。これもひっくり返りました。/原子は宇宙の全質量の4%しかないことがわかりました。残りの大部分は『暗黒エネルギー』と『暗黒物質』と名づけた原子ではない謎の物質です。どちらも正体は皆目わかりません」
この記事を読んで、膝を叩きたくなった。
ぼくたちが普段認識している物質というものは、原子によって構成されているものだが、この物質とよんでいるものは、実は宇宙の中ではわずか4%にしかすぎないという話は、ものすごく奥が深い。原子によって構成されていない暗黒物質(ダークマター)と暗黒エネルギー(ダークエネルギー)というものが宇宙の質量の大半を占めていることを認めざるをえないということだが、これが一体何なのかは、「皆目わかりません」というのは、すごい話ではないだろうか。
f分の1の揺らぎによって、宇宙が誕生した。時間も空間も物質も質量も何も無い状態に揺らぎが生じて宇宙が誕生したという量子力学に基づく宇宙論というものがある。これが正しいのかどうなのかは、今後の研究によるのだが、この謎を解き明かす上で大きなカギを握るのが、暗黒物質と暗黒エネルギーの解明にある。らしい。
物理学は、観測事実によって支えられている。この観測からえられた事実をどのように合理的に説明するのかというところから出発する。
宇宙は急速に膨張している。しかもこの膨張のスピードは、ものすごく加速していることが観測されている。宇宙が膨張し、しかも加速しているということになると、元々はえんぴつで描いた点よりもはるかに小さい1点から始まったことを認めざるをえない。巨視的な物質である天文学と量子力学は、この宇宙の膨張という観測事実によって結びつけられ、発展してきた。急速に膨張している宇宙ということを考えると、一体なぜ宇宙は膨張しているのか。この宇宙の膨張を引きおこしているエネルギーは何なのか、という疑問が湧いてくる。この謎を説明するためには、暗黒物質と暗黒エネルギーを認めざるをえないということのようだ。
ぼくが生きている間に暗黒物質と暗黒エネルギーの正体を解明して欲しい。これが解明されたら、宇宙誕生の謎解明は、新しい次元に足を踏み入れるに違いない。
ディスカッション
コメント一覧
ダークマターの事は俺も昔から注目しておった訳だが、それにしても、と俺は思う。消えてしまった過去の俺のコメントで、東芝さんと確か、「唯物論と弁証法」の問題かなんかで、俺は立花隆と利根川進の「精神と物質」を取り上げやり取りしましたね。覚えておられますか。その時の問題は確か、「人間は死んだら、精神も消滅する」という東芝さんの発言に俺が噛みついたんだと記憶している。なんで、死んだ事のない人間が断定してそんな事が言えるのか、という事だったと思う。
宇宙というか、この世界は不思議なもんで、科学が発達すればするほど、根本的な事に接近したかにみえて、だが然し、謎の方が深まるということがある。そもそも、自分の存在が謎である。自分という存在が宇宙というものを認識している。その認識している自分が実は宇宙という歴史で成り立っているという訳であるから、ますますもって、不思議だ。立花氏もそこに注目した訳である。何故、物質から精神が生まれたのであろうか? さらには、これがもっとも謎だが、「宇宙は何故、存在するのか」という事だ。ビッグバンの前の段階をインフレーション理論が説明しており、更には、それ以前の説明ではトンネル理論というのがあり、そのトンネルの先には異次元のゆらぎの宇宙が無数に存在しているという。
こういう説明でも、俺は納得はしない。その説明でも、依然として、「では何故、そういう世界が存在するのか」という事が説明出来ないからだ。
不思議と言えば、
唯脳論者の東芝さんには、またか、と思われるかも知れんけど、「脳」が自分の頭の中にある。と自分が考えたとする。その「考えた」時に、脳は自分の脳を認識した事になり、これはおかしな話になるのである。脳が自分の脳を認識する筈がないのである。脳が自分の脳を認識したりすれば、最早、脳の脳という事になり、矛盾した状態になるのである。「唯脳論」というのはどうも胡散臭いのである。俺も言いたい事が、「こうですよ」とはっきり言いたいのだが、この問題を取り扱うと、かなりややこしい事を考えんといかんので苦労して、なかなか、ジレンマである。
東芝さんの今回の記事を読んで、こんな事を考えた。
あと、蛇足ですが、東芝さんの「我が家の娘」ですがね、今の写真も可愛いけど俺は前の写真の、自分の足の親指を銜えてる写真の方が好きだったんですがねえ。1枚のところを2枚にしてもらえませんか?
WAOさん。「自分という存在が宇宙というものを認識している。その認識している自分が実は宇宙という歴史で成り立っている」というテーマは、どうも自然科学者も考えているようですね。不確かな仮説を積みかさねざるをえない状態である宇宙物理学の現状でいれば、理論の不確かさゆえに、理論そのものへのゆらぎが絶えずつきまとわざるをえないと思います。
この揺らぎは、「人間の認識によってしか宇宙は見えない」という哲学的な命題を絶えず再生産することにならざるをえません。とくに確かなことだと思われていたことに対し、新たな観測結果が示されると、動揺が広がります。
物質を構成している原子は、宇宙の質量の4%にしかすぎないという話は、衝撃的なものだと思います。「科学が発達すればするほど、根本的な事に接近したかにみえて、だが然し、謎の方が深まるということがある」という一つの事例ですね。
科学万能論を一般人は説きつつ批判をしている人がいます。「全ての物事を科学で割りきることはできない、科学で説明できない物事は存在する」というような意見です。こういう意見を唱える人の中には、霊的な話を信じている人々がいます。
しかし、科学の現在の到達点からいえば、「全ての物事を科学で割りきる」ような到達点に科学は立ち至っていません。というか、一歩一歩解明が進めば、未解決な謎が立ちはだかってくるということでしょう。
「「脳」が自分の頭の中にある。と自分が考えたとする。その「考えた」時に、脳は自分の脳を認識した事になり、これはおかしな話になる」
「脳が自分の頭の中にある」と考えている人は多いですね。脳が脳溢血や脳梗塞で破壊されたら、人間の機能が低下することを信じている人も多いですよね。こういうことを考えたとしても、脳のことを自分の脳が認識したことにはならないと思います。
自分の脳を克明に認識する努力は、ある程度できる時代になりました。しかしそのためには、専門的な知見が必要です。しかし、人間の認識がどのようにして形成されるのか、心とは一体何なのか、なぜ心が生じるのかという面になると、脳科学はまったく理解できないような状況にあります。
しかし、人間の認識は、人間の脳の仕組みにまで分け入り、理解を推し進めることができる唯一の存在です。自己をも客観視できる人間の認識というのは、すばらしいことだと思っています。
ぼくは専門家ではないので、数式の必要な物理学にも化学にも葉がたちません。専門家は、数学の言葉(数式)で交流をはかり、対話を重ねます。専門家にとって数式は、言語だということです。
娘の写真。足を食べている写真がお気に入りだったんですね。ありがとうございます。前の写真を載せるのかどうか。もう少し検討させてください。