須藤みゆきさんの小説2

雑感,文学

秋の笠田駅前大通り
秋の笠田駅前大通り

ひきつづき須藤みゆきさんの小説を読んだ。「新月前夜」「義父のかばん」「秋ゆく街で」の3作。
今は「ミドリの願い」を読んでいる途中だ。
小説は、フィクションで成り立っている。須藤さんは、同じようなテーマの作品を、何かを吐き出すように、しかし渾身の力を込めて書き連ねているようにみえる。彼女が振り絞って書いてきた何かが、読み手のぼくに迫ってくる。

「新月前夜」では、末期ガンに侵されて死の床にある母のことを書いている。新聞配達で深夜1時半から夜8時まで働きづめに働いて、ガンになった母。しかし、この親子には、ほとんど会話らしきものがない関係になっている。その原因の一つは主人公の私であるユリにまつわる事故にあった。ユリは、小学2年生の時に団地の4階のベランダから布団と一緒に転落して怪我をし、右腕が肩より上に上がらなくなっている。この事故によって、事故以前の記憶を失ったユリは、事故の原因がもしかしたら母にあったのではないかという漠然とした不安を抱えている。
───あんたさえ、いなければ───
ユリは、自分がいなかったら、お母さんは新聞配達でボロボロになるような人生を送らなかったのに、という思いにとらわれている。
親子二人の間にほとんど会話が失われたことによって、ユリは、自分が大学に入学したときに、母親が嬉しそうにしていたことさえ知らなかった。ただ、この「新月前夜」には、母親を理解していた新聞の仕事仲間の植村さんという女性が描かれていて、亡くなろうとしている母と娘との間に入って、母親が新聞配達の仕事が好きだったこと、娘のことを思っていたことを伝える。ユリは、小説のラストで植村さんの胸の中で泣き崩れる。
おかあさん
彼女は17年ぶりに自分の母親をおかあさんと呼ぶ。
「月の姿をその夜空に見る事ができない闇の中で、そこに新しい光を見つける事ができるだろうか?
 そう願う私の中に母との記憶が溢れ出し、ファンファーレが鳴り響いていた」
この文章で小説は終わっている。

この小説が民主文学に掲載されたのは2012年2月号。「義父のかばん」が2012年12月号。「義父のかばん」は、私が結婚してからの話になっている。結婚後の話は、「六年間の希」という2014年11月号に掲載されたものと同じ系譜にある。設定が違うのは、「六年間の希」では義父が彼女の救いのような存在として描かれているのに、「義父のかばん」では忌み嫌っている存在として描かれていること。「六年間の希」では夫は傲慢な押しの強い人物として描かれ、「義父のかばん」では引きこもって仕事をしていない人物として描かれていることにある。

須藤さんの作品の中で、ほのかな希望を見すえた作品は、「やさしい光」(2007年4月号)と「秋ゆく街」(2013年10月号)だろう。この2つの作品は、作家須藤みゆきを語る上で欠かせない作品になっている。ただ、今回は夜も遅いのでこれ以上のことは書かない。
須藤さんは、絶望的とも言えるような過去の自分の暮らしに徹底的にテーマを求めて、渾身の力を振り絞って書いてきた中で、次第に希望を据えるようになりつつある。ぼくにはそう見えた。そうかも知れないと思わせてくれた。
ただし、結婚生活を描いた作品には、強い絶望のようなものがある。こちらの系譜の作品がどのような展開をなしていくのか。これから先、須藤さんがどのような作品を書くのか、ということにのみかかっているのだが、追いかけることが出来るのであれば、追いかけていきたい。


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Posted by 東芝 弘明