須藤みゆきさんの小説

雑感,出来事

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11月号の「民主文学」を引き続き読もう、そう思って須藤みゆきさんの「六年間の希」を読んだ。
夫と別居している妻である「私」が、祖母の一周忌の法要のために、広島の夫の実家に行こうとする話だった。「私」は、目と鼻の先に住んでいる夫とは、もう6年も別居している。主人公の「私」は、母子家庭で育ち、彼女の母は新聞配達で生計を支えていた。新聞販売店の寮である部屋は、ドアノブの壊れたカギのかからない部屋だった。「私」は、それまでの人生の中で「差」というものを深く感じとり、神経を過敏に働かせながら、おびえながら生きてきた。

この小説を読み終わったときは、夜中の3時を過ぎていた。2時過ぎに新聞配達の単車の音が聞こえただけで、聞こえるのは、自分の耳鳴りぐらいだった。
「希」という題とは裏腹に、この小説には展望があるのだろうかと思わせるような暗いトーンが溢れていた。なのに、この小説はなぜか自分を強く引きつける力をもっていた。

須藤みゆき。朝になってからぼくは、家中にある「民主文学」の雑誌の中から「須藤みゆき」という作家の名前を探して本を積み上げてみた。
「自分の手元にあるこの人の小説は全部読んでみよう」
そういう気持ちになっていた。
午後2時から午後7時半頃まで9条まつりのチラシの印刷10,000枚という作業があったので、紙を輪転機にセットし、出来上がった印刷物をそろえたり、コンポしたりという合間に本を読むことにした。一度に印刷できるのは1,000枚まで。裏表印刷だったので20,000枚刷ることになった。思った以上に時間がかかった。仕上がりと同時に新聞の入り込みセンター用にコンポする作業も必要であり、読書はしょっちゅう中断しなければならなかった。そういう状態での読書だったが、
「雨の記憶」(2008年5月号)、「やさしい光」(2007年4月号)、「9月の再会」(2010年9月号)と旭爪あかねさんの「ミシンと本棚」(2006年6月号)を読んだ。
自宅に戻ってから、「黒ネコちゃんの贈り物」(2011年9月号)、「秋元いずみ『color』を読む」(評論、2014年4月号)の2つも読んだ。まだ読めていない短編が四編ある。

「六年間の希」と「雨の記憶」、「やさしい光」、「9月の再会」は、中編小説である「やさしい光」と作品世界を共有しているような作品群になる。設定は少しずつちがうけれど、薬剤師という職業に就いている(「やさしい光」は薬剤師をやめて大学の助手になっているが)女性が主人公になっていて、「私」の視点から書かれている。貧しかった子ども時代の母と子の関係を土台にして、生きている「私」を支配している重たい空気は、作者の生い立ちを何らかの形で反映しているのだろう。これらの作品は、小説に人間を引きつける力があることを強く感じさせてくれるものだった。

ぼくの中学校と高校の時代は、母親の入院と重なっていたので、まわりの同級生とはかなり違った生活を送っていた。母は小学校の教師だったので、病気で入院しているときも、ぼくたちは経済的には苦しまなくてよかったのだけれど、それでも、同級生が当たり前のように手に入れていたものを、ぼくは手に入れるようなことはできなかった。高校時代の小遣いは、月に5,000円もあった。現代の高校生よりも大きいお金ではあったが、ぼくは、このお金でお昼ご飯を食べていた。月の半ばで小遣いは底をつき、2年生になると、朝も昼もご飯抜きで生活するようなことが増えていった。
何か月かすると、いわゆる欠食児童になって、朝起きても、起立・礼・着席をしても、激しい目眩に襲われるような状態になっていた。それでも、ひもじい感じはせず、ちょっとしたことで地面や天井が回って見えることが楽しくもあった。
病院のベッドに縛り付けられている母に、色々な物を買ってほしいとか、お昼ご飯のお金がないとか、そういうことは言えなかった。
須藤みゆきさんの小説が、ぼくを強く惹きつけたのは、描かれている貧しい生活の重圧が、非常に生々しいだけに、ぼくの中にある記憶のどこかと深く反応したのかもしれない。

この人の作品群を読んだあとは、秋元いずみさんの作品を読みたいと思いはじめている。


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Posted by 東芝 弘明