楽しく元気の出る会議の作り方

雑感

日本共産党は、党の方針として「楽しく元気の出る支部会議」を実現しようという提起をしている。会議を楽しく元気なものにすることによって、組織を元気に、党員の力を引き出すという方針は、着眼点としてものすごくいいと思っている。具体的にどうすれば楽しく元気な支部会議になるのか。この点については、まだそんなに深まっていないと思ってる。

ぼくは、このテーマについて、党の支部会議を楽しく元気にするということではなくて、もっと一般的にどうすれば会議を活性化できるか、自分なりに研究してきた。接近のために読み込んだ本は、多くのファシリテーション論だった。日本の社会の中で組織を動かすためにどうしても必要なのは会議だろう。

議会も会議の一つだ。議会というシステムも、会議の一つの形態として存在している。この仕組みは、普通の円卓の会議とは違っている。しかし、やっていることは会議であることに変わりはない。ファシリテーション論を読み込んで行くと、独特の形式をもっている議会とは何なのかも、以前よりは鮮明になってきた。

普通の会議には、ほとんどルールというものが存在しない。組織がもっている規約には、組織運営上の最小限のルールであり、多くの規約は、総会などの成立要件、議決要件を書いているだけだ。議案に対する修正案の取り扱いとなると、世間一般に存在している会議には、たちまちルールなしという状況になって混乱する。

自治体の審議会でさえそうだ。原案に対する修正案の提案を広く行おうと提起すると、ルールがないのでいくつかの審議会では小委員会が作られ、そこで修正協議を行うこととなった。このときも、どう扱うかを巡って会議の中でルールを決める必要があった。

普通の会議でも、議会のように修正案の取り扱い方ぐらいはルール化すべきだろう。日本の曖昧な合意形成には問題がある。議会は、12分の1以上の賛成がなければ修正提案はできず、文書提案でしかも形式を整えていなければ扱うことはできない。手続きに基づいて提出されたら、原案より先に審議され、質疑、討論、採決が行われる。修正案が可決されたら原案が修正される。

普通の会議では、こういう形にならない。まず修正案は口頭で行われる。口頭での修正案には曖昧さがつきまとうが、主催者は、すべての案を対等平等に扱って、修正協議に応じる必要がある。

会議における民主主義とは何か。会議の運営ルールを定めていない会議では、一人一人の構成員には発言権とともに修正提案権があるということになる。それは100人の会議でも同じだ。したがって、どんな意見であっても主催者はは修正案を無視してはならない。提案があったものには、きちんと対応しなければならない。悪意をもって攻撃を目的として会議に参加した人がいて、徹底的に異論を唱えだしたらどうなるのか。その場合は、その人の「提案」が終わるまで延々と対応することが求められる。民主的な会議とはそういうものだ。

この異論に対して、主催者が答弁に立つことはあるだろうが、内容によっては会議参加者による討議が必要になる。主催者は会議を執行する権限をもっているので、異論を唱える人と主催者だけのやりとりに終始すると、他の人々はそのやりとりを黙って聞くことになる。

議会の場合は、この形で会議が延々と続いていく。議員が質疑を行っているときに他の議員が異論を挟むことはできない。国会でどうしてヤジがでるのか。という理由はここにある。正式発言で質問者に対して、異論を唱えることができないので、ヤジを飛ばして質問を妨害しているのだ。

議案に対する修正案というのは、まだ分かりやすい。普通の会議の普通の議案というのは、協議による合意形成が中心だ。合意形成というのは、確認で終わる場合もあれば、深く共通認識をもってことに当たる必要がある場合もある。意思の統一と方針の確認が多くの会議の目的だが、こちらの方は、かなり曖昧さがつきまとう。議案に対する修正案というような形にはならない。

議会の議案というものは、すべて文書で提案され、修正は文書の修正をもって行われる。議会の場合は、組織の意思を変えるためには、すべて議案に対する修正ということになる。ここから離れることはない。

普通の会議で行われる意思の統一と方針の決定は、議会の議決とは大きく異なる。実はこちらの方の会議運営は、曖昧さがつきまとうだけに、議会議決よりもさらに難しい。みんなで実行する方針というのは、決めても実行できなかったり、はじめからやる気になってなかったり、やる気満々で決めても、実行過程で問題が発生してうまくいかなかったり、いろいろなことが起こる。

多くの会議で起こっているのは、意思の統一がうまくいかず、決定した方針に対して本当は異論があって、やる気にもなっていないということだろう。こういう会議が思っている以上に多い。
どうしてこういうことになるのか。いくつかの例を考えてみよう。
主催者が、方針を押しつける場合、これは最悪の結果を引き起こす。
普通の会議で、会議の運営者が上から目線で質問者や異論を唱える人に対して、抑え込むような発言や否定するような発言を行うと(実は議会は、答弁者がこのような発言を行うことを許していない)、異論を唱えている人は、押さえつけられた感じになって、威圧感を感じる。日本の会議の場合、発言者の意見は、個人の人格と結びつくようなところがあるので、ことによっては、自己を否定されたような感じになる。主催者によって意見が否定されるような状況が続くと、その会議はたちまち面白くなくなる。自由に意見を言って下さいと言いながら、出された意見に対して主催者が否定するようなことを言ったら、「自由な意見」は出なくなる。こうなると組織は死んでいく。

テレビドラマの重役会議。会長や社長に絶対的な権限があり、いろいろな意見が出ても、会長や社長が発言するとそれでことが決まる。こういうシーンが多いが、こういう組織はすでに死んでいるといっていいだろう。日本の会社の組織運営が、テレビドラマ通りだとすると、なかなか前途は暗いと言わなければならない。

主催者が自分の提案通り方針を決めたいのであれば、会議を開く必要はない。伝達だけでいい。しかし伝達だけでは組織が動かなくなるので、会議を開いているのだろう。しかし、上から下に自分の意思を通したい、そのために会議を開くというのでは、参加者がロボットになる。こういう姿勢は、まず根本的に間違っている。
自分の提案が参加者の発言によって大きく変化してもいい。場合によっては否定されてもかまわないし、自分の意思とは違う結果になってもかまわない。すごく真剣に考えて提案は行うが、その案は不十分なたたき台にしか過ぎない。主催者はこういう姿勢で会議に臨む必要がある。まずここが問われている。他人の脳みそを借りて一緒に新しいものを作り出すために会議を開いているかどうか。これは民主主義の基本でもある。

会議の中で活発に意見が出るようにするのはどうしたらいいのか。
意見を組織する時には、極力意見を言わないで参加者の討議に任せる。そのためには司会者(フェシリテーター)をおくほうがいい。自分が提案者でありつつファシリテーターを務める場合は、かなりの自覚とスキルが必要になる。
主催者と参加者との1対1のやりとりを避けつつ、参加者同士の討議を進めると、会議は活性化する。主催者とファシリテーターが同じ場合、主催者が一番注意を向けるべきなのは、活発な討議が行われるよう発問を行うことが大事になる。

日本の文化は、「察知」するところにある。発言は参加者にすべてを伝わるように話をするとは限らない。参加者に話を伝える努力はしているが、真意が伝わっているかどうか。それには注意が必要だ。真意を伝えてもらうためには、発言後、さらに発言者に対して質問するのがいい。この質問は主催者がしてもいいが、参加者に求めてもいい。質問して、もう少し多面的に話をしてもらうと、討議が進みやすくなる。

会議でもっとも注意すべきなのは、相手の人格に対する批判だ。自分の発言が、人格攻撃になっていることを自覚しない人も多い。人格を否定されたり批判されたりすると、人間はものすごく腹が立つ。人格攻撃が出てきたら、人格攻撃を和らげる必要がある。

大事なのはその人の発言ではなくて、議論のテーマだ。議論のテーマが浮き上がるように討議を組織する必要がある。そのためには、○○さんの発言というものを○○さんから切り離す必要がある。問われているのは○○の問題ではないか。という問いかけをするだけで、かなり○○さんの発言から問題が切り離される。

こういうことを書いていると時間がいくらでもかかる。ではまた次の機会に。


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雑感

Posted by 東芝 弘明