阪神淡路大震災20周年

雑感

阪神淡路大震災から20年。ぼくも当時、富岡橋本市議と一緒に2度、震災ボランティアに参加した。この目で惨状を見て、あの空気の中に入って、被災者支援を行ったことは、忘れることの出来ない体験になった。テレビや新聞で見たり読んだりしているだけでは、絶対に把握できない現実が、被災地にはあった。
あの現場に立って、一人の人間としてできることをしたことは、政治を考える上できわめて大切な経験になったと思っている。皮膚間感覚と間接体験は全く違う。それはどんなにリアルな映像を見たとしても、乗り越えがたい壁だ。
日本共産党の事務所は、震災ボランティアの拠点になっていた。ほんの数日、ぼくたちは、ボランティアになって支援に入ったが、現地の共産党員は、自ら被災しながら救援活動を長期にわたって行っていた。
最も困難な現場に入って、悪戦苦闘しながら現実に立ち向かっていくことなしに、生きた政治は行えない。救援活動を必死になって行ってきた活動は、日本共産党の考え方の根っこに染み込んでいる。

神戸の街はきれいになった。でも、生活の復興は、どこまで進んだんだろう。震災復興にほとんど汗を流さなかった人々が、未だに政治の中心を握って、この20年間政治を続けてきた。被災者に背を向ける政治は、東日本大震災以後、さらに強まっている。神戸では、被災した方々の孤独死が増え、その人数は1100人にも上っている。地域と人間関係を断ち切られ、孤独死しているという報道は恐ろしい。被災した方々への保障という点では、制度が生まれて個人保障をするようにはなってきたが、しかし、全体としては被災者を置き去りにするような傾向には、拍車がかかっているのではないだろうか。

原発事故の現実を見てもそういうことを強く感じる。
たとえば、和歌山県の自民党県連は、2012年5月21日、関西電力に足を運んで、大飯原発の再稼働を求める要望書を提出している。これは、原発事故からわずか1年2か月しか経過していない時期の動きだった。
この話について思い出したことがある。

2012年9月15日の土曜日、和歌山市内で茂野嵩さんと田畑正宏さんの偲ぶ会が行われていた席上に、自民党の議員から電話があった。電話の内容は、ぼくのブログの記事に対する抗議だった。批判は、次の文章に対するものだった。

「休憩時間に原発の話を少しすると、原発は情報公開を徹底的に行い、安全性を高めて運転すれば危険なものではないというテレビ番組の話や、福島県では、今後も放射能による被曝でガン患者は発生しない。極めて低い確率しかないという講演をおこなっている東大教授の話を聞いたという意見が出てきた。
このことを紹介した議員は、こういう話をすっかり信用している。
『日本に原発は必要だ』
こういう話を聞くと、日本という国は、かなりすごい国だとあらためて思う。国民にはなかなか真実が伝わらない。平気で無責任な言動がまかり通る。」(2012年9月12日、「日々雑感」より)

この議員は、「平気で無責任な言動がまかり通る」という文章について、専門家が語っていることに対し、どうしてそれを無責任だと言えるのか、と言った。ぼくは、この抗議に対し、断定的な書き方をしたことをお詫びして、専門家でも意見が分かれている。ていねいに原発事故のことを書くと話をして、あらためて2012年9月16日に記事を書いた。

あれから2年半が経って、あらためて注目したいのは、
「原発は情報公開を徹底的に行い、安全性を高めて運転すれば危険なものではない」
という学習会を自民党が全国で行っていたという事実だ。和歌山の自民党県連が、大飯原発の再稼働を要望した時期と、専門家による学習会の時期とは、時期がほぼ重なっている。野田政権による2011年12月16日の収束宣言にも驚いたが、野田政権時代に原発再稼働への動きが自民党内で本格化し、和歌山の自民党は、5月の時点で明確に再稼働という判断を行っていたことには、あらためて驚かされる。第2次安倍政権が誕生したのは、2012年12月26日。原発再稼働を加速させたのは2014年に入ってからだった(ただし、安倍さん本人は、2012年8月13日の報道ステーションで再稼働の必要性をしゃべっています)。
阪神淡路大震災から20年。この20年間で政治はどう変わったのか。政治は、ほんとうに被災者支援のために動いているのか。この視点で政治の動きを見極めたい。


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雑感

Posted by 東芝 弘明