「1,000円出してもいいで」

雑感

「1,000円出してもいいで」
本になったブログを前にして、妻はそう言った。
思わぬ発言だった。3451円したブログ本に妻がお金を出してくれることになった。
書いてきたブログには、家族の歩みが反映している。娘が小さい頃は、娘の姿や娘の言葉がブログの中に書き留められている。10年前、幼稚園を卒園しようとしていた娘が、ブログの中に生きている。

妻は、家族のことが形になって残っているブログに価値を見いだしたようだ。
自分で書いた文章なのにほとんど覚えていないものが多い。中には、文章を読んでも記憶が重ならないものがある。それらは、短期記憶として、時間とともに記憶から失われたものだ。「Mさん」というようにイニシャルでかかれている人物が、いったい誰なのか分からないものもある。文章を読んで記憶が鮮明によみがえるのは、記憶されている出来事だ。こういうケースの場合は、細部にわたって記憶が補われる。
日記は、人生を二度生きることを意味する。

ブログを10年という期間を空けて読むと、全く他人の書いた文章を読むような感覚さえある。
結構面白い。自分で言うのは恥ずかしいが、読み続けたいという感覚がおこる。日常の出来事の中で物事を考えている文章がいい。

「少しは家族のことも書いてもいいで。困るようなことを書かれるのはダメだけれど」
洗面台に立っていると、通りすがりに妻がそう言った。
封印していた家族の物語が、10年前とは少し違う形で蘇りそうだ。封印を解かれたような感じになり、少し開放感が胸の中に広がった。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明