現代詩を書く時間

雑感

言葉を大切にしたいと思っている。20代の頃、現代詩を書いていた時期があり、言葉で現実を表現したり、言葉で自分の気持ちを表現する努力をしていた。
「うれしい」という言葉が、嬉しい気持ちを伝える言葉なのかと言えば違うと思っている。まず、自分の嬉しい気持ちを見つめて、それはいったいどういう気持ちなのかを捉え直す必要がある。自分の中に芽生えた気持ちに対して、本当に「うれしい」という言葉で言い表せているのか。まず問われているのは、そういうことなのだと思う。「うれしい」という言葉は、優しい日本語なのに、自分の気持ちを第三者に伝えるとなると、「うれしい」はたちまち抽象的な言葉になってしまう。

試験に合格したときの「うれしい」気持ちと、
好きな人に告白して受け入れてもらえたときの「うれしい」気持ち、
美味しい料理を食べて「うれしい」と感じたときの気持ち、
それはみんな違う。
「うれしい」という言葉では伝わらないものがある。

詩人は、自分の「うれしい」と感じた気持ちに向き合って、別の言葉でうれしさを伝える努力をしている。
LINEなどには、スタンプという便利なツールがある。絵の力を借りて「ありがとう」を伝える。スタンプで「ありがとう」を伝えると、言葉よりも情報が多いので気持ちが伝わるかも知れない。
でも、どのスタンプにしようか、散々迷うことがある。いろいろなスタンプを物色してもなかなかいいのが見当たらないことがある。それは自分の気持ちに何となく合わないからということが多い。
物色しているととっかえひっかえ、既製品の洋服を選んでいるような気持ちになる。スタンプを使っていると、こういうものを使わなくても、言葉そのもので気持ちを伝えたいな、という思いが、心の片隅に浮かんでくる。

最近はやりの歌の歌詞を読んでいると、「言葉に深みがないよな」と思うことがある。
そう思いながら、中島みゆきはいいよなあという悪魔のささやきみたいなものが聞こえてくる。
それを口に出すと娘に叱られる。
「握りこぶしの中にあるように見せた夢を 遠ざかる誰のために振りかざせばいい」
痩せた水夫が、夕暮れの港にいて、ハーモニカを吹いている。
ふるさとに帰りたくて、帰れなかった水夫が、力なく振り上げたこぶしが浮かんでくる。
こういう歌に会ってみたい。でもなかなか会えない。

ぼくは、もう長いこと現代詩を書いていない。
書き始めると何時間も、言葉を探して迷いはじめる。
万年筆と縦書きのノートが必要になる。そのような作業は、何か得体の知れないものと向き合う時間になる。
その膨大な時間は、思いを具体的な情景の中におくために必要なものなのかも知れない。
思いと言葉は一直線には結びつかない。
言葉を紙の上に置くと、言葉そのもののリズムの中で考えるという時間が生まれてくる。
思いがあって言葉があるが、思いは言葉によって簡単には表せない。

紙の上に置いた言葉は、思いとは少しずれたところでリズムを生み出していく。
現代詩にも言葉が紡ぎ出すリズムがある。
それは、どこかで五七五や五七五七七という言葉の持つリズムとつながっている。
心と万年筆と紙との間には、いつも距離がある。
距離はなかなか縮まらない。
書こうとする時間は、物音一つしない時間でもある。
物音一つしない時間の中で、自分を見つめて言葉を置く。
自分という抽象的なものから具体的なものへ。
それが詩を形にする作業なのかも知れない。

詩を書かないのは、そういう精神状態を作れないからだろう。
何時間もかかって、何も生まれない時間というのは恐ろしい。
その恐ろしさに向き合わないと、詩は生まれないのかも知れない。

詩を書くという作業は、自由に文章を書いて、「ハイ、オシマイ」というような文章の書き方とは対極にある。
自由自在に文章を書くことの自由さと安易さの中に生きている。
詩と格闘する根性が湧いてこない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明