神仏習合によって実現した世界遺産

世界遺産20周年記念のフォーラムが高野山大学で開催されたので、議員として参加した。かつらぎ町議会は、半数程度の議員が参加した。公演やパネラーの話の中で、神仏習合は仏教公伝( 538年説が有力らしい)から次第にはじまり、密教が日本に入ってきた頃からさらに強まったという話が出された。神仏習合の地に弘法大師がやってきて、丹生都比売神社との関係を結びながら高野山に根本道場を開く中、積極的に神仏習合を教義の中に受け入れていったのだという。これは天台宗も真言宗も同じで、麓に神社があり、山の上に道場があるという関係を結んだのだという。
神仏習合は、こういう形だったのだと思う。吉野・高野・熊野が神仏習合の地になっており、日本古来のアニミズムに源流をもつ神道と大乗仏教とが共存しながら地域を形成したのは、日本人が古来からもってきた自然観によるのだという話は面白かった。自然の中に人智を超えた存在を感じ、自然に心を動かされながら多くのことを感じる心持ちが、神仏習合の土台にあるというのは楽しい。
日本人の中にある仏教観が揺らいでいるのではないかという発言もあり、それは、今後は日本人が昔からもっている自然観に移っていくのではないかという大胆なものだった。面白いなあと感じて山を下りた。
20周年にもなるのに、かつらぎ町内には、神仏習合の姿が世界遺産になった話が、看板としては、ほとんど書かれていないなと感じた。今日のような話が、深く研究されるとともに発信されるよう努力をしないと、世界遺産の値打ちは来る人の中に伝わっていかない。20年経って、このテーマは原点なのに、古くて新しいと感じた。この視点を大事にしたい。




明治政府による神仏分離令のために、神道から仏教は排除。神仏習合思想は終焉。此処から国家神道体制を推進する訳ですが、そうだとすると、あたかも神仏習合思想は憲法9条のような役割を果たしそうです。昭和天皇宸筆の扁額弘法に祈りを込めて、世界遺産を大切にしなければならないのだと思います。
明治のときの廃仏毀釈は、かなり強烈だったようです。丹生都比売神社の横にあった大きなお寺は取り壊されています。しかし、神と仏が祀られていたことについては、丹生都比売神社はそれを守るために、いわば説明を誤魔化して、切り離されるのを免れています。全国でも同じようなことがあったと推察されます。国家神道になった流れからすれば、丹生都比売神社は違うんだという説明をしています。
吉田神道は神仏混淆的でした。問題は復古神道で、神仏分離を唱えていました。平田派は明治政府の最初の宗教改革に関与。しかし近代化の流れの中で次第に衰退。復古神道は、儒教仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想。平田派国学者らは神仏分離と神道国教化を推進した。神社から仏教的要素を除去。しかし実は、政府の神仏分離令は、仏教排斥を意図したものではなかった。が、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動が、民衆により起きた。しかし平田派国学者が主張する古代にあった政体の理想が当事の実情に合わなかった。西洋列強が行う布教活動の盛況さに対する国内の危機意識により、僧侶との協力がなければ日本特有の風土を守れないとする実情があった。浄土真宗からの具申をきっかけとして、神祇省は教部省に再編成。大教院を設置。教導職には僧侶も任命された。神仏共同布教体制が出来上がってゆく。しかし明治6年、キリスト教禁教令廃止。明治8年、大教院閉鎖。明治10年、教部省廃止。内務省寺社局に縮小された。という流れを見てきますと、自分の浅はかさが分かりました。対キリスト教の為の神仏共同ではなく、仏教はチベットの例外を除いて、紛争摩擦とは無縁の謂わば平和宗教故に、神仏習合思想に期待というのが、わたくしの立ち位置でしたけれど、高野山の伝統は真に奥深く、とうの昔、神仏は分かちがたく存在しているのですね。