経済的な分析に進もう
経済的な話を書き始めて、勉強不足なのを痛感した。書き出すと、学んでいないことが見えてくる。
何となく分かったようにして、日々を過ごしている。
途中まで書きかけた文書を全部削除して、一から書き始める。
頭に浮かんだことを書いてみよう。
橋本の企業誘致。橋本市が全面的に土地を用意した訳ではないだろう。開発公社については、解散していると思われる。開発公社関係の用地の買い戻しなども行われていたのではないか。
では、一体、企業誘致を行った土地は、どこの誰が、どんな風にして用意したのか。そこにどのような形で企業誘致が行われ、実現したのか。つぎ込まれた資金の総額はいくらなのか。企業の進出によって用地代はどのような形で回収されたのか。塩漬け土地にならないための対策は、必至で企業誘致を図るところにある。このためにどのような努力がなされたのか。実現した企業による雇用、業績、経済波及効果。負けて上げた固定資産税等々。これらは、すべて和歌山県が真剣に数値も明らかにしているだろう。
このような視点が芽生え始めたのは、この前の飲み会だった。
友人の酔っ払いながらの発言が、企業誘致の経済効果という視点を与えてくれた。
橋本市の日本共産党は、橋本市の最大の経済政策である企業誘致とその効果を明らかにし、成果を見極めるとともに地域経済を本当に強くする道を探る必要がある。住宅リフォーム助成は大きな力になるが、経済宅策はこれで終わりにする訳にはいかない。
わが町、かつらぎ町でも同じことがいえる。産業構造の分析、農業の占める割合を明らかにして、何がどのような形で地域にインパクトを与えているのかを、事実にもとづいて丹念に明らかにする必要がある。介護関係と医療関係で働いている人の人数とその経済的な位置についても興味がある。
林業は、森林組合の事業規模を中心に見れば、その姿が分かると思われる。シルバー人材センターの役割についても補助金だけではなくて、シルバー人材センターの経済活動の規模、新しい分野にサービスを展開することによってどのような事業展開が行われるのか、といいう視点からも見ていく必要がある。
産業構造の分布は、町の分析の中にある。それを足がかりにして具体的事実に迫る努力が大事になる。
農業の規模については、農協に対する出荷額だけでかつらぎ町の農業を把握することはできない。農家の所得と農協の出荷額との相関関係も見る必要がある。物産販売の規模とその経済活動ということになると、独自の調査が必要になる。
客観的な指標とその実態。客観的な指標を把握していけば、どのような事実をつかむべきなのかも見えてくる。産業観光課が、何をどのように把握しなければならないのかというところにも踏み込んでいく必要がある。
物事は具体的なので、具体的な事実にいかに肉薄していくか。この肉薄のプロセスの中でこそ、抽象的な思考が大事になる。具体的な事実を分析するための抽象的思考ということだ。
飲み会の時に、「日本共産党にいて、疑問に感じたことはないか?」という問いかけがあった。
「ないよ」
「それやったら宗教やな」
「いや、違うよ」
というやり取りになったが、どういうことなのか、全く説明しなかった。
日本共産党の路線や政策に対して、信じている、信じていないということではない。大事なのは、党が明らかにしていることが、事実なのかどうかだ。もちろん、日本共産党の綱領路線の分析や歴史観には信頼をおいている。それは、若い時代から自分の頭で、自分なりに検証して、その路線の正確さに感動もして理解してきたからだ。
もちろん、この理論の基礎になっている科学的社会主義についても、自分なりに勉強してきた。
大切なのは「根本的にことに通じること」である。その上で、
「弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」(資本論第一巻あとがき)というような見方を行うところにある。
こういう姿勢で物事を捉えるという点では、日本共産党の路線も政策も、同じようにこういうものの見方で捉えるべき対象だということだ。自分なりの科学的に批判的に検証し、自分の頭で解釈するということを通じて理解していく努力をしている。
したがって、日本共産党が明らかにしている政策や理論に対し、もちろん未解明や不十分さを感じることはあるけれど、日本共産党が努力して明らかにしている方向に対する深い信頼と確信がある。
大事なのは、結論ではない。大事なのは、事実の本質を深く把握する方法にある。
ぼくは、ある時期から自分自身も日本共産党のように、自分の目と耳、頭で物事の全体像を見て、本質を見抜き、その物事の発展の方向を生き生き把握したいと思ってきた。物事を分析する力は、中央委員会にあるのだから、党中央の論理を学んで、それを語るというようなことでは、それこそ、宗教になってしまう。
自分のものの見方、考え方が唯物論的でかつ弁証法的になるように努力し、丹念に事実を把握して、物事の本質と物事の発展のプロセス、物事の発展方向を見極めたいと考えてきた。このような努力には時間がかかる。しかし、このようなものの見方、考え方には発見と感動がある。
議員になって幸せだったのは、調査と研究が、繰り返し求められるところにある。ものごとを丹念に把握していくと、そこには新しい発見があり、絶えずその物事の発展の歴史が見えてくる。発展の歴史が見えてくれば、現在の姿がわかり、未来の発展方向も見通せる。この力こそが、科学的社会主義の理論の力だと思ってきた。ぼくの一般質問や質疑は、こういうものの見方によって支えられている。
「いや違うよ。日本共産党の理論は、徹底的に物事に精通する努力をするところに基本がある。その中から発展の歴史と現在の姿、発展していく未来を予見する。このような見方に立って、たえず研究を重ねているところに日本共産党の神髄がある。今の社会は、人類の最終の到達した社会ではない。人類は、この危機を乗り越えたらもっと豊かに発展する可能性をもっている。社会を変える努力は、人類の価値のある努力の成果を力にする。世の中を変える運動が社会を前に進める力になる。ここに面白さを感じている」
これが、その時に酔っ払った頭で考えていた答えだろう。酔っ払っていたので、この話をしたらどこに行くのか分からなかっただろうなあ。
まあ、こんな話をしても、硬すぎて真意が伝わらないと思うけれど。
日本共産党の大会決議案は、世界の情勢、日本の情勢、社会主義・共産主義社会への展望を明らかにしている。なかなか読みごたえのあるものになっている。中国に対しては、自由と民主主義がない問題を指摘し、社会主義に発展できるかどうかについて、問題点を指摘している。日本社会における社会主義は、資本主義の中で培われた価値ある成果の上に立って、自由と民主主義がより一層発展する社会になることが明らかにされている。
社会主義に到達する過程はかなり長い。生産手段が社会化されたとしても、人間が生産の現場や管理を行い販売を行うすべての段階で、民主主義的な職場を実現し、文字どおり働く人が主人公になるような組織の形を実現するのには、かなりの時間がかかると観ている。社会主義社会になって、労働時間が短縮されて、自由が拡大し、人間がその持てる能力を多面的に発展させられる条件が整い、人間としての豊かな発展が保障される中で、組織を運営するマネジメントがより一層民主的に発展するようになると思われる。
日本共産党の組織でさえ、人間関係のもつれや軋轢がある。人間関係によって組織運営に支障が出るケースもある。現在の資本主義的な人間関係の中で、日々発生している組織の中での人間の有り様は、なかなか複雑で問題点が多い。組織が、構成員の思いを汲み上げ、一人ひとりが大事にされて、たえず人間的な成長が保障されるような、そんな人間関係が実現している組織は、あまり例がない。
民主的な組織運営と人間の自由が保障される社会は、やがて実現されると思われるが、それは、資本主義的な搾取が経済的な基盤に存在しなくなり、自由と民主主義が保障され、豊かな人間的発展が保障された中で徐々に実現するものなのかも知れない。
でも、かなり遠い将来、人間はこういうところに到達するという見方を日本共産党はしているということだ。夢物語ではなく。
宗教です。・・・失礼ですが、僕も東芝さんの考えを読むといつもそう思います。政治や経済・教育に関して教義が優先した考え方のように感じます。事実に対する判断が、教義によって歪められていると思いますよ。先見性のあるのはAppleの選択だけだと思いますが・・・・ごめんなさいね本音を書きました。
宗教ではなく、科学だと思っているのですが。先日、日銀の量的緩和の論文を読んだんですが、論証がないと思いました。
科学と宗教の違いは、考え方に違いあります。ルネッサンスから始まる宗教から科学への脱皮です。
宗教は教義が正しくて、現実に起こっている現象が教義に反するれば間違いだと認識します。東芝さんのよく語る憲法9条論なんかがその典型です。
科学とは、現実に起こった現象がたとえ自分の信念と違う結果が示された場合、それを認めなければいけない。
東芝さんは、論知的に組み立てることが科学と思っています残念ながら違いますよ。
その証拠に、この前の教育論がいい例。高校の小学区制は失敗した例なのに、未だに自分の信条結果の平等を通すため、小学区制を支持しています。これは思考パターンの例なので、人間なかなか意地になって感情的で
それを認めようとしないんだけど・・・
つまり「日銀の量的緩和の論文を読んだんですが、論証がない」という考え方は科学的ではないのです。日銀が正しいかどうかは分からないけど、その結果が出るときにはじめて分かる。
共産主義は、一つの運動である。それは教義からではなく、事実から出発する。とマルクスは言いました。トリノさんが書いたように、科学は、科学的な結論を受け入れなければなりません。
ただ、問題なのは、人間の認識の仕方にあります。事実から出発して認識を積み重ねて行くと、一定の命題が浮き彫りになります。人は、帰納と演繹によって導き出された認識や概念によって、ものの見方、考え方を深めます。この過程の中で、抽象的な思考が、物事の本質を把握する力になるのは、抽象的な認識が、物事の本質に肉薄しているときです。
このようにして獲得した概念は、当然、判断を含みます。人間が獲得する概念は、事物を運動と変化の中で把握することは不可能なので、必ず、事物の諸関係から切り取ったものにならざるを得ません。ここに人間の認識や概念が、事物の諸関係と運動から切り離される必然性があります。
人間が獲得する認識や概念は、事物の本質に肉薄している場合は、物事の運動や変化を読み解く生きた力になります。しかし、認識や概念が、事物の諸関係や運動からかけ離れている場合、物事の真実に肉薄することも、運動の変化を予測することもできません。
しかし、物質的な根拠を持っていると思い込んでいる認識や概念は、なかなか手放せません。科学者が、自分の仮説に心を奪われ、試行錯誤を繰り返し、かなり長い年月を証明不可能な研究についやす原因はここにあると思います。
科学は、積み重ねてきた理論そのものを疑うことも求めます。ただし、一つのことにこだわって徹底的に研究しないいと、自分の仮説を捨てることは、なかなかできません。
こだわることと、事実を受け入れることは、一見矛盾していますが、徹底的にこだわって研究するからこそ、誤りを発見した時には、潔く捨てることができるのだと思います。
認識と概念にまつわるこの問題は、自然科学と社会科学の両方に共通しています。自然科学は、比較的単純な物質を扱っているので、実験がしやすいケースがありますが、観測を中心としている天文学などは、実験が不可能でもあります。社会科学の場合は、実験という手法を採用しにくいので、統計的な手法や調査が研究の方法になったりします。
日本共産党は、日本と世界の情勢を分析して、日本共産党綱領を作り、2000年代に入って、綱領の命題を再検討して、発展させました。綱領で行われた分析が、金科玉条なのではなく、それは物事を読み解く導きの糸となるものです。現実はたえず変化しますから党綱領の分析を超える事態が生まれることがあるのは当然です。
・・飲み会の時に、「日本共産党にいて、疑問に感じたことはないか?」という問いかけがあった。
「ないよ」
「それやったら宗教やな」・・・
本題の内容に出てくる文章です。これが宗教とする簡単な明快な回答です。東芝さんは近世の日本史についてよく文章にするけど、世界史についてはあまり書かない。科学と宗教を分離した歴史的出来事は、イタリアで始まったルネッサンスです。教科書なんかでは簡単にしか書かないんだけど、科学の世界では大事件なのです。教義と違う事実が確認されれば、たとえ教義であっても事実を認める。それが科学の基本的立場です。
社会では自然科学と違い実験はできないので簡単ではないですが・・・事実・・・東芝さんは自衛隊の存在を認めるの?自衛隊は必要か?・・・・・教義にもとづく答えはひとつです。が・・・・世界情勢を考慮した答えは違う。
宗教か科学か・・・の違いですよ。
自衛隊の存在を日本共産党は認めています。すぐになくせるものだとも考えていません。国民が自衛隊を評価していることも認識しています。
しかし、同時に自衛隊が憲法と矛盾する存在だということも認識しています。
この上に立って、自衛隊についての政策を明らかにしています。科学をトリノさんに語るのは、おこがましいですが、物事を見極める上で大事なのは、よく調べるということです。日本共産党の政策は、インターネット上にもかなり詳しく公表されているので、それを踏まえた上で、論じていただくことを切望します。
戦後の世界情勢については、多くの変遷はありますが、最近の変化については、日本共産党の第26回党大会決議案で詳しく明らかにされています。現在、植民地支配は過去のものとなり、大国が、世界を支配するという状況ではなくなり、世界各国の関係は、対等平等を原則とする方向に動いています。第二次世界大戦に至ったような状況にはありません。
その中で、日本の右傾化は、突出しています。
各政党の政策を読もうとは思いません。共産党だけじゃなく自民党も読みません。どうしてか?意味がないからです。僕は政治家や政党が何を実現させたかを評価します。何を主張したかは評価しません。
科学と同じ立場です。どんなすばらしい理論でも事実でないものは意味がない。同じように、政党の政策がどんなすばらしい政策でも、実現しないものであれば意味がないからです。
それと・・・自衛隊が憲法と矛盾する存在だということも認識していて、自衛隊の存在を日本共産党は認める。
それで、その状態を放置するの???国の最高法規の矛盾を無視?
自衛隊については、自衛隊としての歴史と運動がある。自衛隊自身が生成と発展の歴史をもち、現実的な存在として20数万人の自衛隊員を要する組織になっています。憲法に違反していても、現実の存在として、国民の支持をえている部分もあります。この自衛隊をただちに解体するといっても一定の時間がかかります。日本共産党が政権についたら、国民に自衛隊の存続について信を問う時期が来ると考えています。
そのためには、まず自衛隊が秘密にしてきた情報を開示する必要があると考えています。国民が自衛隊について自主的に考えられるようにする必要があります。情報を開示していくなかで、自衛隊について、考えていくことが大事になります。
政党の政策を読まないで政党を批判することはできません。科学的な態度なかで大事なのは、現存するものの肯定的な理解です。肯定的に理解しつつ、批判的に捉えるという2つの見方が大事になります。まずは、そのものを肯定的に理解する必要があります。トリノさんがいうように、政党の政策には嘘があります。こういう政策を掲げているのに、なぜこれが張りぼてであって、実際の行動とは違うのか、こういう視点も政党の本質を読み解く上で大事になります。
政治の世界で実現しているものは、ある意味で綱引きの結果です。力関係のバランスの中で政治が決定されていきます。そういうものとして現実を捉える必要があると思います。
回答になっていませんよ。というかそれが宗教的回答です。科学とは簡単明快な答えを求めます。宗教は簡単なことを教義に基づいて複雑に考えます。
自衛隊が憲法と矛盾する存在だというこを認識して、憲法を改正しない?つまり立法府における怠慢を意味します。
過去の歴史だけを見て、未来を見ない。そういう考え方です。
なんていうかなぁ~ルネッサンスにおけるキリスト教と科学の対決のような感じです。
地動説を信じる?キリスト教は教義にもとづき認めませんでした。科学的観測事実があるのにも関わらずです。
憲法改正を認める?共産党は過去の歴史という理由で認めません。自衛隊が憲法と矛盾する存在だというこを認識しながらね。・・・・同じですよ。
「科学は、簡単明快な答えを求めます」?
それは、事実を把握する時に、まず現実の連関の中からたくさんのものを捨象して、取り出し、シンプルな形にして、そのものの中に貫かれている法則を明らかにするからです。
科学も人間の病気などを扱い始めると、なかなか因果関係を特定できなくなります。それは、生物というかなり複雑なものを扱っているからでしょう。
原子という物質は、物としては、かなりシンプルだと思いますが、原子を構成している素粒子は、複雑な動きをしていますよね。レーニンは、「電子は、原子と同じように、くみつくすことのできないものである」と「唯物論と経験批判論」(1908年)に書きました。この言葉は、現在の科学の到達点を把握して書かれたものではありませんが、まさにその後の科学の発展は、素粒子でさえクオークによって構成されていることが明らかになりました。物質は階層的に成り立っており、それがどの様な運動形態の中にあるかは、まだまだ明らかになっていません。
生物学では、ヒトゲノムの解析は終わりましたが、この解析によって人間の生命の秘密はまったく明らかになりませんでした。遺伝子を徹底的に把握しても、生命の秘密は解き明かせなかったということです。受精卵から細胞分裂していきますが、どの細胞が脳になり足になり、顔になってくのかは決まっている訳ではありません。司令塔があって、全部必然的に決まっているのではなくて、細胞と細胞の関係の中で、非常にローカルな形で何になるかが決まるということです。必然性と偶然性は、絡まり合って存在しています。
「科学は、簡単明快な答えを求めます」というのは違います。科学の発展によって、人間の認識は、単純なものから複雑なものへと分け入って行き、その中に法則を発見し今に至っていると思います。一つの問題を解き明かすと、目の前にさらに大きな謎が立ちはだかるというように、ものごとは極め尽くされることはありません。
自衛隊は、憲法違反の軍隊です。この軍隊をなくすためには、一定のプロセスが必要になります。国民的な合意を形成しながら、自衛隊を解体するという考え方を日本共産党は明らかにしています。新しい社会は、古いものを破壊するのではなくて、できあいの社会的な存在を新しいものにつくりかえるなかで実現するものです。社会はそうやって発展してきました。
明治維新が、半封建色の濃い絶対主義的な天皇制を生み出し、資本主義に足を踏み入れながらも、農村地域には、半封建的地主制度を広範囲に残したのも江戸時代の母斑を引き継いだということでしょう。
現代の日本が、戦前への国家の回帰という問題と闘わなければならないのも、第2次世界大戦による敗北があったにもかかわらず当時の政治勢力が温存されたことに大きな原因があります。日本の自由と民主主義を守るためには、自由民主党という自由と民主主義を守らなくなった政党との間で、たたかうことが避けられないということだと思います。今年の12月6日までのたたかいが、一つの転機になることは間違いないと思います。
今まで何度もやったので、自衛隊論や憲法論を論議するつもりはありません。
「自衛隊は、憲法違反の軍隊です。この軍隊をなくすためには、一定のプロセスが必要になります。国民的な合意を形成しながら、自衛隊を解体するという考え方を日本共産党は明らかにしています。」
というのは東芝さんが何度も主張する政策(教義)です。そのことに疑問を持たないのでしょう?
・・・・・
飲み会の時に、「日本共産党にいて、疑問に感じたことはないか?」という問いかけがあった。
「ないよ」
「それやったら宗教やな」
「いや、違うよ」
・・・・・・
それが宗教なのですよ。自衛隊が必要という事実を認めながら、教義に疑問を持たない。宗教です。
日本共産党の理論は、演繹のための導きの糸になりますが、このことを念頭に置きながらも、現実の分析は、事実から出発して根本的にことに通ずることを徹底的に重視します。
このようなアプローチの仕方は、マルクスが書いた「共産主義は一つの運動である。したがってそれは、教義からではなく事実から出発する」という考え方に貫かれています。
構築された理論は、演繹のための武器になりますが、真理(物事の事実に等しい)に到達するためには帰納(個々の特殊な事実や命題の集まりからそこに共通する性質や関係を取り出し,一般的な命題や法則を導き出すこと)という方法が重要です。命題や法則は物事の本質ということです。
飲み会で「ないよ」と答えたのは、この真理に到達する方法論に対する確信があるので、そう答えました。構築された論理を信じ込むということではなくて、物事の真理に到達するための科学的な方法論に確信があるということです。
科学的社会主義の哲学は、唯物論と弁証法から成り立っていますが、この世界観は、閉じられた理論体系ではなく、自然科学や社会科学の進歩によってたえず発展していく開かれた大系です。
開かれた大系は、帰納まで信じていた真理が、新しい事実によって根本的に覆されるということを含んでいます。
このことについて、エンゲルスは、「自然科学の領域で画期的な発展がおこなわれるだけでも、そのたびにそれ(唯物論)はその形態を変えなければならなかった」とフォイエルバッハ論で書き、自然科学における研究は、理論の発展によって将来まったく意味のないものになることを予見しました。
宗教といのは哲学的側面もあるので、人格にも影響する。だから東芝さんの考えを否定すことは人格を否定することになる。
だから、飲み会の時に、「それやったら宗教やな」といった人は、詳しく説明しなかったのですよ。
説明しても教義を信用している以上、結局堂々巡りになるだけ。ぼくと東芝さんの憲法論のようにね。
ただ考え方は科学ではないですよ。自衛隊の存在と憲法の問題に対する明確な答えがないので・・・
なんだか、今回は全く論点がかみ合っていないですね。
唯物論と弁証法は、益川敏英さんの方法論でした。益川さんの座右の書はエンゲルスの「自然弁証法」でした。小林と益川の両氏は1973年、3世代のクォークを導入することで、CP対称性の破れを自然に説明できることを示しました。
この研究の導きの糸になったのが唯物論と弁証法だったことを益川さん自身が明確に語っています。
理論というものは、たえず真理を近似的に反映するものなので、人間の認識の発展や事物の発展によって、時代遅れのものになり、もっと深く事実を明らかにする理論に取って代わります。
理論を信じるのではなくて、研究する上での方法論の方が大切です。もちろん、この方法論自身も変化の中にあります。
しかし、このことを理解していても、すべての人は、自分の理論に固執する場合がありますよね。それが正しいと思っているときには、固執するのが人間です。大切なのは、固執していても、事実の前に謙虚であれば、固執していた理論から離れ、前進することができます。
こういうものの見方考え方は、宗教ではないと思いますが。
日本共産党の自衛隊論については、党の公式な見解で具体的に明らかになっています。そちらをご覧ください。
そりゃ~かみ合わないですよ。宗教論やってるんだから・・・笑。日本共産党の自衛隊論を質問しているのではありません。東芝さんに聞いているのですよ。その唯物論と弁証法で語ってほしい。
自衛隊が憲法と矛盾する存在だということも認識していて、自衛隊の存在を認める。自衛隊を認めることは憲法違反じゃ?
東芝さんは
「自衛隊については、自衛隊としての歴史と運動がある。自衛隊自身が生成と発展の歴史をもち、現実的な存在として20数万人の自衛隊員を要する組織になっています。憲法に違反していても、現実の存在として、国民の支持をえている部分もあります。この自衛隊をただちに解体するといっても一定の時間がかかります。日本共産党が政権についたら、国民に自衛隊の存続について信を問う時期が来ると考えています。」
と答えたけど・・・
日本共産党が政権についたら?・・・宗教の教義のような内容の答え。
憲法を守るのなら、自衛隊廃止運動をするべき。
自衛隊は、対米従属の軍隊であり、国民に対し、ときには治安維持という観点から国民に銃を向ける軍隊です。治安維持訓練は今も行われています。しかし、自衛隊発足から今日までの間に、災害復旧などで、国民の中には自衛隊に対する信頼があります。
日本共産党が連立政権を樹立すれば、自衛隊がどのような存在なのかを具体的な事実を明らかにしながら、国民が自主的に判断できるよう情報を開示します。この過程の中で、自衛隊を解体してもいいという国民的な合意を勝ち取るということです。
自衛隊員は、国家公務員なので、自衛隊員の身分の保障という課題も発生します。このような問題があるので、自衛隊の解体には、一定の期間と時間がかかるという考え方を持っています。
この解体の過程の中で自衛隊を災害救助などで活用することもあり得るということです。
国際情勢の問題も横たわります。現在のような情勢下では簡単に自衛隊を解体できないかも知れません。いずれにしても、民主的な連合政権ができたら、自衛隊は、新政権のコントロール下に置かれ、解体の方向に向かうということです。
憲法を守れ、従って自衛隊を即時解体せよという主張は行いません。自衛隊については、民主的な政府を樹立した後に解体するという考え方をもっています。その際、最も重視するのは国民的な合意だということです。
日本共産党は、自衛隊について、明確な方針をもっています。上に書いたことは、その政策をぼく流に書いたということなので、上に書いたこと=日本共産党の正確な政策だとは思わないでください。正確な表現を知りたいのであれば、アクセスして確認してください。
なぜこういう但し書きを書くのかというと、自衛隊の具体的な解体のプロセスは、未来の選択に属する問題なので、基本点を明らかにするだけにとどめているということです。日本共産党は、未来の問題については、青写真を書くことをしません。それは条件が整ったときに、未来の政権が、与えられた諸条件の中で具体的に政策を選択して、実行に移すからです。
未来については、最小限の基本的な原則だけを明らかにするというのが、日本共産党の取っている態度です。
唯物論と弁証法というのは、自然科学と歴史学から導き出された科学的なものの見方、考え方だと日本共産党は確信しています。もちろん、この確信は、日本共産党のものなので、社会に押しつけるような考え方はもっていません。
唯物論と弁証法という考え方は、非常に面白いですよ。
マルクスは、唯物論と弁証法にたどり着いて、このものの見方、考え方を導きの糸として、経済学の研究を行いました。商品とは何か、貨幣とは何かから資本主義の分析を始めましたが、商品には、使用価値と価値(交換価値)があり、使用価値は具体的有用労働によって形成され、価値(交換価値)は抽象的人間労働によって形成されることを明らかにしました。
唯物論と弁証法を理解すれば、商品の2つの側面が発見できるというような単純なものではありません。マルクスは、唯物論と弁証法を研究しながら、徹底的に商品が生成されるに至った人類の歴史を研究し、十数年かかって、商品には使用価値と価値という2つの側面があり、この2つの側面が商品を形成していることを突き止めました。この分析によって、商品の価値とは何かという経済学の根本命題を明らかにすることができたのです。
マルクス経済学の根底には、労働価値説があるという話は聞いたことがあるでしょう。長くなりすぎるのでここには書きませんが、交換価値の本質には価値があり、この価値は社会的な労働時間によって形成されるということを明らかにしています。マルクスは、膨大な研究の結果として、商品とは何か、商品の価値とは何かということを突き止めたということです。
この分析の中には、唯物論と弁証法の考え方が貫かれていますが、唯物論と弁証法の考え方から事実を切り取ったのではなくて、具体的な事実の具体的研究の結果として、この考え方にたどり着いたのだということです。根本的にことに通じることが、何よりも大事だというのが、マルクスの一番大切な精神でした。
商品そのものは、歴史的に形成されたものであって、すべての物が商品になるわけではありません。現在社会では、交換を前提にして作られた社会的労働による生産物が商品になり、商品は、使用価値と価値という2つの側面から成り立っているというのが、商品に対するマルクスの見解になっています。
貨幣も元々は商品でした。日本ではお米も貨幣の役割を果たした時期があります。金が貨幣の役割を担うようになったのは、それだけの意味がありました。商品の中で交換の仲立ちをする役割を担う商品をマルクスは一般的等価物と呼びました。この一般的等価物が貨幣になっていったということです。
唯物論と弁証法は、自然科学の研究にとって、最も重要なものの見方、考え方の基礎となるものであると思います。生物学者の福岡伸一さんの動的平衡という本などを読んでいると、まさにそこには弁証法的な物質の存在があります。動的平衡という表現自体、動きながら同時に平衡を維持しているということですから、相反する傾向の統一というものになっています。
「自衛隊は、対米従属の軍隊であり、国民に対し、ときには治安維持という観点から国民に銃を向ける軍隊です。治安維持訓練は今も行われています。しかし、自衛隊発足から今日までの間に、災害復旧などで、国民の中には自衛隊に対する信頼があります。
日本共産党が連立政権を樹立すれば、自衛隊がどのような存在なのかを具体的な事実を明らかにしながら、国民が自主的に判断できるよう情報を開示します。この過程の中で、自衛隊を解体してもいいという国民的な合意を勝ち取るということです。」
この考え方は、現実に必要なものを教義にもとづく考え方にするというもので、宗教と同じです。正しいのが自分の主張で間違っているのが現実。・・・・科学ではありません。ルネッサンス以前の宗教の考えと同じです。
それとマルクス論は・・・・まあ~古典の古典・・・・その上間違った理論なので論評に値しません。ひとつ聞きますけど、貨幣とは何?・・・マルクスはどう定義するの?
貨幣は、商品から発展したものです。それ自体が使用価値と価値をもっています。
書くのが面倒なので、コピーしておきます。
貨幣の本質は、何にでも交換できる価値尺度にまずあります。
昔、「カルビーポテトチップスは100円で買えますが、カルビーポテトチップスで100円は買えません」というコマーシャルがありましたが、このコマーシャルは、価値尺度としての貨幣の性格をよく表していました。
貨幣については、解説すると長いので、引用させていただきます。
長いので、申し訳ありません。(西部労働学校 2010・4・25,6・6–講義録 東部ユニオン委員長 小泉義秀さんの文章です)
ポイントは「一商品の価値が他の商品の使用価値で表わされる」ということです。生糸の商品の価値が上着という商品の使用価値で表わされるということ。上着は生糸の価値形態になったという言い方をしています。価値形態という言葉は難しいのですが、生糸は自分の価値を上着の使用価値で表現するしかないということなのです。生糸の価値は上着の使用価値で表現され相対的価値の形態をもったということになります。相対的というのはストレートに価値を表現することができないからなのです。今一つのポイントはただ同じ人間労働が含まれているから交換できるということだけでなく、10キログラムの生糸が1着の上着に等しいという形で必ず一定量の価値関係が表現されているということです。この関係は生糸が1着の上着と交換できるという可能性を表現しているということです。この関係はまた20キログラムの生糸は2着の上着に値するという価値関係を表現しています。しかしここでは2着の上着は20キログラムの生糸の価値量を表現することができますが、上着自身の価値量を表現してはいないのです。ここで分かっていることは商品A=10キロの生糸の価値は商品B=1着の上着という使用価値で表現されるということ。AはBの体を使ってAの価値を表すことしかできなく、ここではBの価値は表現されていないということなのです。上記の10キロの生糸は1着の上着に値するという価値形態を第Ⅰ形態とします。
次にマルクスは第Ⅱ形態の考察に入ります。第Ⅰ形態は次のような第Ⅱ形態に移行できるはずだと。10キログラムの生糸は1着の上着に等しいという関係は、10キログラムの生糸=1着の上着=14キログラムの砂糖=10キロの茶=0・53キロの銀等等と無数の商品と等しいという関係を表現することもできるではないかというのです。しかしこの関係は第Ⅰ形態の表現と同様、あくまでも絹織物の価値を他の商品の使用価値で表現しているにすぎません。そこでマルクスは等式を逆にすれば次のようになると言って次のような第Ⅲ形態を引き出します。
1着の上着 =
14キログラムの砂糖= 10キロの生糸
10キロの茶 =
0・53キロの銀 =
他の商品X =
この第Ⅲ形態をマルクスは一般的価値形態と言っています。この形態は1着の上着の価値を10キロの生糸の使用価値で表現するということです。また10キロの茶の価値を1キロの生糸の使用価値で表現するということ。他のいろいろな商品の価値をただ一つの商品絹織物で表現することが可能だというのです。ここでは生糸が等価形態にあり、他の全商品から排除された形をとっています。他の全商品は生糸との関係を通して他の全商品と関係することができます。
この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性を持ち得たのである(①130頁)
この特殊な商品が金であり、お金(貨幣形態)として機能するということなのです。絹織物は一つの例にすぎません。歴史的には金が一般的価値形態として他の商品から排除され貨幣の役割を果たしてきたのです。第Ⅲ形態は第Ⅳ形態に移行します。
10キロの生糸 =
1着の上着 =
14キログラムの砂糖= 8グラムの金(22800円)
10キロの茶 =
0・53キロの銀 =
第1形態からはじまる価値形態は価格形態のことなのです。すなわち10キログラムの生糸は1着の上着に値するという価値形態は1着の上着は8グラムの金(22800円)によって購買することができるという価格関係だということです。さらに第Ⅰ形態に貨幣の秘密が隠されているということです。注目すべきは商品Aは相対的価値形態にあり自己の価値を表現する側に位置しているのです。最初の例では上着は生糸の価値を表現する材料にすぎなかったのです。第Ⅳ形態でも同様です。左辺の相対的価値形態にある商品は自らの価値を表現する能動的位置にあります。しかし、現実には等価形態にある貨幣が全面的交換可能性の専制的立場に位置することになるのです。現実には全ての商品は逆転した受身の立場に立っているということ。(お金)貨幣は相対的価値表現から完全に排除された受動の極にあるために、もっぱら等価形態にあり、自分自身の価値表現など問題にしなくなるのです。それゆえに一転して全面的な主導権、積極性を持つのです。要するに全ての商品は貨幣よって購買されない限り価値を実現できなくなる関係になるということ。歴史的には金が貨幣として最もふさわしいものとして固定しました。
これまでのところでは、われわれはただ貨幣のただ一つの機能を知っているだけである。すなわち商品価値の現象形態として、または諸商品の価値量が社会的に表現されるための材料として、役立つという機能である。価値の適当な現象形態、または抽象的なしたがって同等な人間労働の物質化であるというのは、ただ、どの一片をとってみても同じ均質な質を持っている物質だけである。他方、価値量の相違は純粋に量的なものだから、貨幣商品は、純粋に量的な区別が可能なもの、つまり任意に分割することができ、その諸部分から再び合成することができるものでなければならない。ところが金銀は生来その属性を持っているのである(①163頁)
貨幣商品は虫歯の充填や指輪・ネックレスなどの装飾品、携帯電話のある部品などにも用いられますが主要な使用価値は現実には使われない貨幣商品としての役割です。金は延べ棒にして金庫奥深くにしまい込まれています。金はかっては金貨や小判・大判として流通したこともありましたが、現在は紙幣が流通しています。
以上の展開で貨幣が生み出されてきた秘密が明らかになりました。ひとつはお金(貨幣)も商品であり、装飾品などの使用価値を持つということです。第2は商品は貨幣に購買されてはじめて価値を実現することができるのであり、貨幣に購買されてはじめて交換関係に入るということです。価値形態論では物々交換のような話から入るので貨幣ができる以前の物々交換から始まる歴史を表現していると誤解する人もいるのですが、マルクスは資本主義社会の商品の交換過程の話を論じているわけですから商品の物々交換を描いているわけではありません。あくまで貨幣によって購買されて交換関係に入る商品関係を展開しているのです。
貨幣はいわゆるお金のことです。金貨・銀貨・銅貨だとわかりやすいかも。500円・100円玉や50円は銀貨、10円玉は銅貨で今私たちは紙幣を使っているので金を直接お金として使ったことはないので実感がわきませんが、お金は資本主義の勃興期は金を裏付けとして紙幣が流通していたのです。こういうのを兌換紙幣と言います。紙幣に金いくら分と書いてあり、銀行へ持っていけば実際に金と交換できたのです。今は日本銀行券として国家の信用で流通させているのです。
ともあれお金には何か不思議な力があるかのように思う人もいるかも知れませんが、元をたどれば一つの商品にすぎなかったのです。その秘密をマルクスが解き明かしました。貨幣商品金はただの使用価値としての商品とは全面的に対立する商品の価値を一身に体現する一般商品であるということです。
商品、あるいは資本と言い換えても良いのですが、商品、あるいは資本は元をたどれば単なるモノでしかないのに、それを作り出した人間の意のままにならなくなります。商品所有者、社会の意志からも独立した動きをし、逆に人間や社会の意思を規定しさえするようになるのです。このような商品の社会的な自己運動性についてマルクスは「その類例を見出すためには、われわれは宗教世界の夢幻境に逃げ込まなければならない」と言ってこの商品の自己運動性を「呪物崇拝(物神化)」と名付けています。宗教の神はイエスでもアラーの神でも何でも良いのですが、人間が頭の中から作り出した観念の産物です。この神があたかも実在しているかのように、人間の行動がいつの間にか神に支配されるようになる。これと同じように人間が作りだした商品・資本自己運動して人間が制御できなくなり、逆に人間を支配するようになることを「呪物崇拝(物神化)」と呼んでいるということです。恐慌もそういうものだし、戦争もその意味では経済的な対立が根本原因だから、人間が作り出した資本の矛盾が戦争という形を取って爆発するということ。しかしこれは自然災害ではないわけです。人間が作り出し、人間が動かしているけれどもそれは資本主義社会ゆえのことだということです。資本主義社会はこの資本の自己運動によって成り立っている社会だからです。
資本主義社会は何でも労働生産物が商品として生産されることを基本としています。その又根底には労働力が商品になっている社会だということです。労働力が商品として売買され、その労働力を売る労働者が資本の下で商品を生産する社会だということ。したがって商品は現物の形態の他に価値形態という二重の形態を持つ労働生産物であるということです。現物形態というのは米なら米という現物形態。たいてご飯として食べる使用価値とも持っているということ。価値形態というのは10キログラム5000円という価格を持つということです。江戸時代の封建性社会では米は年貢として納められていました。年貢米は価値形態ではなく、年貢という社会形態です。これは領主と農民という封建体制の支配し支配される人間と人間の関係が年貢の中に詰まっているのです。商品の現物形態と価値形態の二重の関係には資本と賃労働という支配と被支配の人間関係が詰まっているのです。だから年貢米は価値形態ではないのです。価値形態の価値の実態は人間の労働です。しかも具体的有用労働ではなく、人間労働一般でとらえられ抽象的人間労働が価値の実態だということです。
人はそれぞれの職場・会社でいろいろな商品を生産しています。それらの生産・労働は資本主義社会においては計画的に自動車を年間に何百台、コメを数万トン、鉄を何百トンとか計画を立てて生産するわけではなく、それそれの資本家が私的な独立した諸労働として行い、それが社会的総労働を成すといいう関係です。私的諸労働は商品が売買され消費される交換関係の中ではじめて社会的に接触してそれらの諸関係の中で初めて自分たちの詩的労働が社会的な労働であることを実証するということです。このように人間の関係はモノとモノを関係を通してはじめてとり結ばれる特有の性格をもっています。この特有の関係が人間の意識にも反映してくるのです。人間は商品関係の中で価値の実態が労働であるということをあらかじめ知っていて生産物を価値として等値してきたわけではなく、商品関係において10キログラムの生糸は1着の上着に値するという形で相対的に価値を等値しながら私的な労働を社会的人間労働として関係させてきたということです。人間はそれを知っているわけではありませんが、それを行ってきたということです。しかしこの形態がわかったからといって現実が変わるわけではありません。商品形態の完成形態である貨幣形態、いわばお金によって社会的諸関係が物的に覆い隠されている社会が資本主義だということです。
貨幣の果たしている役割は、1価値尺度、2流通手段機能、3蓄蔵貨幣 4支払手段機能 5世界市場と世界貨幣というような5つに機能をもっていると言われています。
その貨幣に対する論理は間違いではありません。ただ間違いではありませんが、理論が古すぎます。物理学で言うならば、素粒子論を研究している時代に、ニュートン力学を説明するようなものです。
具体的にいうと・・
>昔、「カルビーポテトチップスは100円で買えますが、カルビーポテトチップスで100円は買えません」というコマーシャルがありましたが、このコマーシャルは、価値尺度としての貨幣の性格をよく表していました。
これは貨幣の一部分を表したにすぎません。
「買えます」というのはお金とポテトチップスを交換するということでしょう?つまり「買えます」「交換する」は同義語で、同じこと。そうすると「カルビーポテトチップスは100円と交換できますが、カルビーポテトチップスで100円は交換できません」
となります????・・・
実は買う人と売る人の見方によって違う。
正確には
「買う人はカルビーポテトチップスは100円と交換できますし、売る人はカルビーポテトチップスで100円は交換できます」
東芝さんの理論は市場という「買う人」「売る人」が存在することを考慮していない理論です。だから現在の市場が支配する経済論を説明するには古すぎて役に立たない考え方です。
それと、何度も何度も問うけど、憲法改正反対で、自衛隊は合憲という判断?違憲?・・・それで
>自衛隊は、対米従属の軍隊であり、国民に対し、ときには治安維持という観点から国民に銃を向ける軍隊です。治安維持訓練は今も行われています。しかし、自衛隊発足から今日までの間に、災害復旧などで、国民の中には自衛隊に対する信頼があります。
日本共産党が連立政権を樹立すれば、自衛隊がどのような存在なのかを具体的な事実を明らかにしながら・・・
なんの事実・・・??? 東芝さんの文章だけど、核心部分の意味が全く分からない。難しい文章をならべればいいというものではないと・・・
共産党は一種の宗教?自衛隊が軍隊なら憲法違反?・・・自衛隊に対する信頼があろうがなかろうが、法律違反なら解体する。そうでしょう?・・・じゃあききますが、憲法改正に国民の信頼があれば賛成するのか?
合理性に欠ける内容です。
自衛隊は憲法違反の軍隊です。しかし、自衛隊を廃止するためには、国民合意を得ながら廃止をおこなうということです。廃止するためには、廃止に至るプロセスが必要になるということです。
憲法違反である自衛隊を解体するのには、時間がかかると考えています。
これが、もっとも合理的な考え方だと思います。
日米安保条約は、片方の国が条約解消を決断すれば、一年後にアメリカ軍はアメリカ本国に帰って頂くということです。こっちの方が解消は簡単ですね。
日本共産党は原発ゼロを掲げています。ここでいうゼロは、ただちに原発ゼロを宣言して、廃止に向けた作業に入ろうということです。実際問題としては、真剣に急いで廃止しようとしても、解体するのに何十年もかかるということです。廃炉ビジネスが成り立ちます。
現実に存在するものは、負の遺産であっても、なくすためには一定の時間がかかるものがあります。正しい、正しくないという観点で一気に廃止できないものもあります。一気に廃止できるものもあります。「現存するものの肯定的理解のうちに同時にその否定、その必然的没落の理解を含み」というものの見方、考え方が大事です。
日本共産党は、消費税が導入されたときには、直ちに廃止を掲げました。しかし、その後、政府は、消費税を5%に引き上げながら、法人税を減税し、消費税が法人税収の穴埋めの役割を果たしてきました。法人税の削減は、国際競争の中で行われています。日本共産党は、将来的には消費税廃止を展望していますが、当面は消費税を5%に据え置かざるをえないと判断し、法人税については、優遇税制の廃止を掲げています。
歴代自民党が、日本の税収構造を破壊してきた中で、日本共産党は、日本経済と国家財政を再生するにはどうすればいいのかを、節目節目に明らかにしてきました。分析のたびに、日本共産党の政策は変化してきました。変化せざるをえないような困難が日本経済には横たわっています。それだけ事態は深刻になっています。自民党は、方向としては、消費税を10%に引き上げ、法人税をさらに下げようとしていますが、これは、日本の国家財政をさらに悪化させる道であり、このような政策を続けていくと、展望がなくなってくるでしょう。
日本共産党は、消費税を増税しなくても財源は確保できることを明らかにして、日本経済と日本財政、社会保障の再生を実現しようと呼びかけています。
現実の動きの中に、日本社会を発展させる芽があります。歴史は、経済的な利害の対立が根本にあり、そのせめぎ合いとして決まっていくので、その現実の中から導き出される展望も、事態の推移とともに変化せざるをえません。100か1かというような議論ではないということです。
トリノさんは、日本国憲法が現実に合わないということをよく言われますが、日本国憲法が制定以後、66年ほど経っても改正されずに来たのは、国民の中に日本国憲法を守る運動があったからです。日本国憲法を支えてきた現実的な動きがあり、数々の裁判闘争もありました。国民がこの憲法を生かしてきたので、自民党が権力を持ってきたのに変えることができなかったということです。
ヒットラーのように、憲法違反の法律を作って憲法を事実上殺してしまうような動きにでていますが、ご存知のように、この動きに反対する国民のたたかいが大きく盛り上がりました。安倍さんの支持率は40%台になりました。
日本国憲法を守れという側には、野中広務さん、古賀さんなどの自民党の古参議員を含め、益川英俊さん、高畑勲さん、宮崎駿さん、山田洋次さん、吉永小百合さん、仲代達矢さん、瀬戸内寂聴さんなどものすごい数の方々が結集しています。特定秘密保護法反対になると憲法学者の小林節さん、田原総一朗さん、菅原文太さん、浅田次郎さんなども加わり、学者3000人超、映画人300人超、日本弁護士連合会、日本ペンクラブなどなど、まさに燎原の火のような勢いで広がっています。
歴史というのは、一様ではありません。憲法を否定するような動きと憲法を守る動きがせめぎ合っているというのが、リアルな歴史観だと思います。
簡単にいうと、東芝さんは憲法に基づき自衛隊を廃止。僕は自衛隊を残し憲法を改正。根本的に考え方が違うだけ。憲法に合うように事実を修正しようと考えるか、事実に合うように憲法を修正しようと考えるかだけ。
文書を変えるほうが簡単です。平和問題と全く関係ない。だって事実が変わるわけじゃない文章が変わるだけだもの・・・・無理して事実を変えると、副作用が大きい。
「カルビーポテトチップスは100円で買えますが、カルビーポテトチップスで100円は買えません」
というのは、貨幣とは何かの一側面を表すものです。
ここには、貨幣の本質が現れています。
貨幣は、価値尺度として役割を果たしているので、価値(ここでは価格の問題を度外視しています)が釣り合っているのであれば、交換が前提である市場においては、100円の価値のあるものは100円と交換できます。交換が前提である市場のわかりやすい例は、スーパーやコンビニです。
つまり、
パン1個=
卵5個= 100円
カルビーポテトチップス=
ということがコンビニで成り立っていると仮定しましょう。
このイコールで結ばれている関係は、100円あれば、いつでもパン1個、卵5個、カルビーポテトチップス等々と自由に交換できるということです。
しかし、パン1個、卵5個、カルビーポテトチップスは、100円の価値がありますが、いつでも自由に100円に交換できるかといえば、そういう訳には行きません。ここには、商品が貨幣に転嫁するための「命がけの飛躍」という問題がいつも横たわっています。一般的等価物である貨幣があれば、いつでも商品を手に入れることはできるが、商品は、買い手の使用価値を満たすものでなければ、貨幣に転嫁できないということです。
「卵5個と100円を交換しろだって?。私は、今、パンを食べたいから買うのであって、生卵5個なんていらない」
100円を持っている買い手は、そういうことを考えながらコンビニの中を物色するということです。商品販売には、涙ぐましい努力がなされています。ポップを商品に貼り付けて、「店長おおすすめ」とか買いたり、「半額セール」と書いたりして、商品の販売主は、貨幣へのラブコールを盛んに行っているということです。
この簡単なイコールで結ばれている商品と貨幣との関係に、貨幣とは何かという根本的な問題が潜んでいます。この関係は、いうまでもなく社会的関係です。日本の円が通用しない外国では、日本の円は、貨幣としての役割を果たせません。
日本が壊れるほどの災害が発生したときは、この社会的な関係が壊れます。そうなると貨幣をいくら持っていても、物が買えなくなるという現象が起こります。
売る人と買う人をきちんと視野に入れているのが、「カルビーポテトチップスは100円で買えますが、カルビーポテトチップスで100円は買えません」ということです。
ここに書いたのは、マルクスの貨幣論のほんの少しの説明です。ぼくの頭の中で考え出された理論ではありません。商品とは何か、貨幣とは何かという資本主義の根本問題を徹底的に明らかにするためにマルクスは、膨大な時間を研究に費やしました。資本主義分析は、商品の分析からはじめなければならないというのは、マルクスにおける資本主義分析の重要な出発点ですが、なぜ商品の分析からはじめる必要があるのかを、徹底的に明らかにしたマルクスの姿勢は、なかなか否定できないと思います。
商品とは何か、商品の価値とは何かから分析をはじめて、商品の価格とは何か、価格を形成している商品の価値とは、どこから発生しているのかを明らかにし、資本主義的生産がどうしてあらたな富を生み出すのか、資本主義(この言葉はマルクスの造語)における剰余価値の生産の仕組みはどこにあるのか、労働者はどのようにして発生したのか、資本とは何か、資本家はどのようにして剰余価値(利潤)を手に入れるのか、再生産と拡大再生産、商品の流通、地代とは何か、恐慌はなぜ起こるのかというように分析をすすめました。この研究の流れは、資本主義の細胞である商品の分析から次第に一歩一歩階段を登るようにして書き進められています。
もちろん、マルクスの資本論は、今日の視点から言って、不十分さや誤りを含んでいるのは当然です。長い論争が行われている命題もあります。100年以上も前のイギリスの資本主義の分析を中心としたものでもあるので、マルクスの時代には起こっていなかった資本主義の現象もたくさんあります。
にもかかわらず、マルクスの資本主義研究が力を発揮しているのは、資本主義の根本問題である商品の価値とは何かというものの中に潜んでいる資本主義の富の源泉を明らかにしたところにあります。
エンゲルスは、マルクスの功績について、「空想から科学へ」の中で次のように書きました。
「この一大発見、すなわち唯物史観、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、我々がマルクスに負うところである。社会主義はこの発見によって1つの科学となった」
ヨーロッパの方々は、ある程度、このマルクスの研究の深さを知っています。イギリスのBBCのアンケートでは、過去1000年の中で最も偉大だった人物は?という問いに対して、1位 マルクス、2位 アインシュタインという結果になりました。トリノさんに向きあっていただいたのは、ヨーロッパの人々が認める1000年に1人の大天才だということですね。
理解してもらえないなぁ~・・笑。「買う人」「売る人」が存在することを考慮していない理論というのは、市場の原理を説明できない理論ということです。
そりゃ~ポテトチップスで100円は買えませんよ・・・笑。
でも株式市場は違います。外国為替市場も違います。お金で株を買えるし、株でお金を買えます。その原理をマルクス論では説明できないと言っているのです。
たとえば・・・アベノミクス。マスコミの造語ですが、どうして株が上がったのですか?・・マルクス論で説明できます?それもわずか1年の間にね。どうしてでしょう?その株価上昇における通貨の役割はなんでした?
その答えを、マルクス論では説明できない。・・・そう言いたかったのです。
正確にはマルクス論は単なる理論で、現実の経済には全く役に立たない理論。
もう一つ、ニュートン力学はマルクス論とは違います。現実の世界を説明する一つの理論です。ただ・・素粒子論には役に立ちませんが・・・笑。
最後に、過去1000年の中で最も偉大だった人物は?という問いに対して、1位 マルクス、2位 アインシュタインという結果になりました。
ん?????僕は経済学が専門でないのでマルクスを評価できませんが、ニュートンより アインシュタインが上???
そりゃ~ないでしょう・・笑。 ニュートンの方がアインシュタインより遥かに偉大ですよ。あまりにも偉大すぎて、イギリスでは評価できなかったのでしょう。だからそのアンケート・・・ただのアンケートで正しい評価ではありません。
商品と貨幣の交換の中に買い手と売り手の関係が織り込まれているということです。商品の話をしている時に株の話を持ち出して、商品論で株を論じるというのは、論理の飛躍があります。論じるためには、株とは何かを明らかにしなければなりません。
量的緩和によって銀行に資金がだぶつきますが、銀行は、借り手が市場にいないので資金を市場に思うように投入できません。
同時に行われている公共投資は、国が予算を組んで公共事業を展開しているので、こちらの方は、市場に資金を投入するので、貨幣の価値を下げる要因になります。
今回、アベノミクスを実行に移す時期と、円安が同時に進行しました。この円安は、国際的に円安に舵を切ったことがいちばん大きな要因でした。アベノミクスによって円安が進んだとは、いいがたい状況です。円安によって輸出産業が輸出を伸ばし、他方では原料の高騰などによって物価の上昇を生み出しました。
株式市場は、アベノミクスに反応して、期待感が生まれました。だぶついた銀行の資金が結局は富裕層などの投資家にまわりました。輸出産業を中心にした輸出の増大や海外投資の増大が、株価を押し上げ、株の売買が盛んになりました。しかし、その内実は、海外の投資家による株の購入が大きかったという側面を強く持っています。
しかも、株については、5月6月ごろがピークであり、そのあとは完全に上げ止まりの状態です。円安は1ドル100円のところで止まっています。むしろ、今後起こる反動の方が恐ろしいといえるのではないでしょうか。
このような傾向は、一部の狭い範囲に留まっています。量的緩和は、銀行に資金をだぶつかせていますが、これだけでは経済に大きな変化は生まれません。
異常なのは、日銀が物価の上昇2%を目標にして、銀行に資金を増やし、国債を大量に発行して、公共工事に予算をつぎ込んでいる所にあります。アメリカのような架空の需要が喚起される(リーマンブラザーズのショックを引き起こしたサブプライムローンのような取引)ようなことが起こったら、これらの資金が投入されますから、バブルが再燃する可能性はあります。
日本の借金はものすごいスピードで増えています。これが、株価の暴落、国際信用の低下、円安を引き起こす危険が増しているといえるでしょう。
これに対して日本政府が行おうとしているのは、消費税の増税と社会保障の切り捨て、企業に対する減税ですから、日本全体の内需を拡大することにはなりません。日本経済は、一部企業の業績改善と広範囲に広がる景気の低迷というきわめていびつな形になりつつあるのではないでしょうか。アベノミクスが、日本経済全体を好景気に向かわせるものではないことは、実感されつつあると思われます。
サラリーマンの賃金は、統計的には伸びているように見えますが、物価の上昇と社会保障費の負担増で、実質的にはマイナスになっています。
雇用も拡大しているといいますが、中身を見ると正社員の50万人減、非正規雇用の100万人増という状態なので、むしろ悪化しているといえるでしょう。
消費税増税による駆け込み需要が起こっています。これが、4月以降の需要の落ち込みを準備しているので、破綻は避けられないのではないでしょうか。
ポテトチップスの市場はありませんが、生鮮食料品は市場のセリで値段が決まります。株式市場と基本的に同じです。経済の歴史は物々交換から始まり、その物々交換を便利にするために通貨が出現し、通貨で市場が形成された歴史を持ちます。経済論も当然その市場における通貨の役割を定義しなければいけません。
で・・・その東芝さんの通貨の役割、1価値尺度、2流通手段機能、3蓄蔵貨幣 4支払手段機能 5世界市場と世界貨幣・・・・市場は経済における役割はどれですか?
それと、マルクス論は東芝さんの述べたアベノミクスについてどう説明しているの?
市場で貨幣が果たす役割は、価値尺度、流通手段、支払い手段、国際舞台では、世界貨幣ですよね。
市場経済を通じて社会主義へというのが、日本共産党の考え方です。市場は、需要と供給のバランスを調整する機能を一定もっています。
価格は市場で決まりますが、マルクスは価格は価値の現象形態であり、価格の本質は商品の価値にあることを研究を通じて明らかにしました。100円の商品を手に入れて、これを120円で売れば商売人は20円を儲けますが、商品の交換と流通を実現している市場では、商品が貨幣を通じて価値を実現していますが、市場で新しい価値が生まれているのではないというのが、マルクスの認識でした。もちろん、現実の市場では、100円の物が200円で売られたり逆に180円で売られたりしています。しかし、相手を騙したり騙されたりして販売されることがあったとしても、資本主義の価値の源泉をこの商取引では説明できない──マルクスはこのことを見つめて答えを出しました。
商品の価値以上の値段を付けて販売するということは、この方法が同じように無数に繰り返されていくと、騙したり騙されたりするということになり、結局は相殺し合ってあらたな価値が大規模に増大することにはならないということです。
では、資本主義社会における商品の価値とはいったい何か。これを解き明かすことにマルクスは全力を尽くしました。
商品には使用価値と価値があり、使用価値には人間の具体的有用労働が対応し、価値には人間の抽象的人間労働に対応しています。商品の価値は生産過程で発生している。生産過程で商品の価値は生まれているが、この価値を実現するのは市場だというのがマルクスの分析でした。
資本主義社会では、商品が商品価値のどおり交換されていたとしても、商品を交換し貨幣を手に入れた資本家の元には、新しい価値が蓄積する。それは、100円の価値のものを120円で売るということでは説明できないということでした。
原料である小麦等でパンを生産する場合、小麦などの原料+機械の減価消耗費+人間の労働力が注ぎ込まれて、商品が生産されるのだから、パンの中には、これらの価値がすべて転嫁されるということです。原料も機械も自らの価値をパンに転嫁するのですが、もう一つ転嫁するのは人間の労働力の価値です。この人間の労働力の価値には、人間にしかない独特のものがあります。
人間の労働力の価値というのは、人間の労働力の再生産に必要な生活資料の価値の総体とイコールになります。別のいい方をいすれば、衣食飲住の費用と子どもの教育費、養育費、教養娯楽費などの価値の総合計が労働力商品の価値だということです。
人間の労働力が資本主義社会の下では商品として販売されます。このとき、資本家は、労働者に対し、労働力を再生産するのに必要な生活資料の価値を支払えば、労働力商品の価値に匹敵する賃金を払うことになります。
重要なのは、労働力を再生産するのに必要な生活資料の価値の総体と労働者が生産現場で労働力を消費(つまり一定の労働時間働くということ)することとは、イコールではないということです。
労働力商品は、いわば1日8時間働いていくらという形で賃金が支払われるので、生産性が高まれば高まるほど、8時間に消費される労働力と再生産に必要な生活資料の価値の総体には、差がうまれます。この差が資本家が手に入れる剰余価値になります。マルクスは、労働力商品の価値に匹敵する労働を必要労働とよび、労働力商品の価値以上の価値を生み出す労働を剰余労働と呼びました。
資本家の儲けの源泉は、この剰余価値にあります。生産性が向上すれば、労働力を再生産するのに必要な価値の総体を生み出す労働時間は短くなり、これにともなって剰余労働の時間が長くなります。資本家は、労働力商品の価値に等しい賃金を支払った場合でも剰余価値を手に入れることのできる仕組みがここにあります。
マルクス論は東芝さんの述べたアベノミクスについてどう説明しているの?という意味がわかりません。
東芝さんの貨幣に関する考えには突っ込みどころがいっぱあるけど、まあ~このテーマから外れるのでここまで。
それより、いつもこんな書き込みをすると、つくづく宗教だと感じてしまう。いつもパターンが決まっている。
1.共産党の論理が一部で展開される。
2.マルクス論が一部で展開される。
3.どこから出てきた調査がしらないが
・・イギリスのBBCのアンケートでは、過去1000年の中で最も偉大だった人物は?という問いに対して、1位 マルクス、2位 アインシュタインという結果になりました。トリノさんに向きあっていただいたのは、ヨーロッパの人々が認める1000年に1人の大天才だということですね。
さも事実を示しているように欧米国支持をえているような内容が出る。
こんな感じなのよねぇ~宗教の誘いと同じなのよ。どれも教義に属するような内容なので否定しようない。
少々、お互いに飽きてきましたね。ぼくは、それでも、できるだけ誠実に、問いかけに対し、込み入った問題をていねいに書いたつもりです。ものの見方、考え方の基礎になる唯物論と弁証法については、突っ込んでいただきたかったのですが、ほとんど言及がないのは、残念でした。
日本共産党の政策だという言及は、日本共産党が発表した文書に根拠があるからです。マルクスの理論を展開したのは、マルクスの研究にその根拠があるからです。正確な議論をするためには、論拠の根拠を示すことが礼儀だと思うからです。それは、性格に反論していただくための材料の提供という意味もあります。
アンケートの根拠を示していませんでした。アンケートは次のようなものでした。
西暦二〇〇〇年を前にして、イギリスのBBCが国内外の視聴者に「過去一〇〇〇年間で、もっとも偉大な思想家は誰だと思うか」というアンケートをとりましたが、それに対する回答の第一位は圧倒的にマルクスで、第二位がアインシュタイン、第三位ニュートン、第四位ダーウィンといった結果でした。
「往復書簡=内田樹/石川康宏 もし今、マルクスが生きていたら 『若者よ、マルクスを読もう』によせて」 『経済』2010年11月、第182号
アンケートの様式は、日本語に訳されたものがネットで検索して見ることができます。ただし、アンケート結果は残念ながらリンク切れですね。
トリノさんが、勝手に宗教だというのは、どうでもいいことですが、宗教というのは、教義を無条件で信じるところにその中心があります。
「自然科学の領域で画期的な発展がおこなわれるだけでも、そのたびにそれ(唯物論)はその形態を変えなければならなかった」というのは、宗教ではないでしょう。エンゲルスは、自然科学の研究を行ったときに、自分たち以後の自然科学の発展は、私の研究をすべて意味のないものにするだろうという意味のことを書いています。このような立場は、宗教ではないと思います。
資本主義社会を徹底的に研究し、資本主義社会は、人類が到達した最後の社会形態ではなく、この社会は階級闘争の進展によって、次の社会に移行する。奴隷制が封建制へ、封建制が資本主義に移行したように。資本主義が人類の最後の社会形態だと固定的に捉えるというのは、科学的ではない。と考えたのはマルクスでした。ここには非常に柔軟なものの見方考え方があるのではないでしょうか。社会の形態を一旦与えられたら変わらないもの、移行しないものというとらえ方は、硬直しているのではないでしょうか。
江戸時代の初期、つまり1600年以降に生きた人間が、1868年の明治維新のような激動を予見することはできなかったと思います。江戸幕府の支配体制が安定期に入ったとき、人々はこの社会体制が未来永劫続くと思ったのではないでしょうか。1700年から1800年の初期までの100年間でいえばどうでしょう。
日本が資本主義に足を踏み入れてから今日まで、わずか145年です。この歴史を見て、この社会体制が未来永劫続くと考えるのは無理があるのではないでしょうか。人類は、資本主義における利潤第一主義というこの経済的な問題点を克服できなければ、人類の未来がない問題に直面するのではないでしょうか。このように人類史を長いスパンで見れば、資本主義は次の社会体制に変わらざるを得ないという見方をするのは、そんなに突拍子もないものではないと思います。
ぼくの現実把握の方法論を最後に紹介しておきます。これは、今日、Facebookに書き込んだものです。
こういう認識方法は、宗教ではないと思うのですが、いかがでしょうか。
人間は、様々な事に関わって取り組んでいると、こうあるべきだとか、問題点については見えてきます。それらの認識は、関わっている物事の何らかの側面を必ず反映しています。しかし、自分が関わっている物事を具体的に出来るだけ全面的に把握しないと、印象の域を出ません。問題点を指摘しても、問題を解決する方向はさっぱり分からないことも多いのです。
関わっている物事と格闘するためには、他の事例との関係で比較検討するることも大事になります。比較検討や関係する書物を読むことは、自分が格闘している物事を新たな視点で捉えなおす力になります。この過程は、意識改革というものではないと思っています。物事をより深く把握するためのヒントのようなものです。新たな視点で物事をとらえ直すことによって、新しい把握ができます。
人間の認識は、対象である物事をなかなか全面的には捉えられません。全面的に捉えるためには、対象を広く深く把握する努力が必要です。
物事をより深く広く把握するために、まず大事なのは、肯定的に理解することです。もちろん肯定的に理解しつつ、批判的に検討するということになりますが、大事なのは、肯定的に理解しようとする視点だと思っています。
そうすることによって、より根本的に物事を理解することができるようになり、物事の連関や発展の歴史的経緯が見えてきます。物事には、生成と発展の歴史があります。この発展の歴史を踏まえつつ、物事の具体的な連関が見えるようになれば、どこをどう変えればさらに発展させるかが見えてきます。物事の中には、必ず物事を発展させる芽があります。物事に肉薄して行けば発展の芽も見えてくるということです。
もちろん、崩壊の過程にある物事もあるので、こういうものの見方をすれば、どんなものでも発展させることができるというものではありません。
「肝心なのは根本的に事に通じること」が物事に取り組む出発です。こういう捉え方をして行けば、最初印象的に捉えていた問題点は、多くの場合変化します。新しく獲得した物事を発展させるべき方針は、現実に深く根ざしたものであり、対象に肉薄し対象を変える力をもつ可能性があります。可能性があるというのは、こういう努力をしても、対象を把握しきれておらず、その方針が間違っていることを否定できないからです。対象把握の不十分さを克服するのは、実践です。新たに発展させるために方針を立て、努力を始めることによって、方針の不十分さも、認識の不十分さも見えてきます。
人間の意識は、この方針を実行し、実際に物事を変革する過程と変革した時に大きく変わります。こうやって得た認識こそが、意識改革の名に値する認識だと思います。意識は、たえず現実の反映です。この現実を変革する過程の中で意識も大きく変化するのだということです。最初に意識改革が行われて、物事を変えるというのではありません。意識改革というのは、現実に肉薄できない観念論にとどまるのだと思います。
東芝さんとは、思想的に全く違います。物事の考え方が違うのです。もちろん、どちらが正しいと証明しようがない。
そういう世界の話題を論戦しているのですから・・・ただマルクスについてはその経済論をもとにロシア革命後、いくつもの国家が建国されましたがすべて破綻し、資本主義の勝利になったという事実は間違いありません。つまりマルクス論は素晴らしい論理かもしれませんが、現実には役立たないという動かしようのない事実があります。
僕としては・・・いまさらマルクスねぇ~・・・というのが本音。
マルクスもエンゲルスも、ここの命題を宗教の教義のように金科玉条にすることとは無縁でした。なによりも大切なのは、研究の科学的な方法であり、次に大事なのは、具体的事実の具体的な研究でした。
トリノさんが、ニュートンを大切だと考えるように、マルクスも非常に重要な解明をおこなっています。ニュートン以後、原子論や素粒子論が確立する過程で、アインシュタインの相対性理論によって時間と空間の概念の変更が行われたり、素粒子の運動が解明されたりしても、巨視的な物質の運動を論じるときには、ニュートン力学が必要なように、マルクスは資本主義の解剖という点では、経済学に大きな基礎を与えたということです。
ロシア革命や中国革命は、マルクス主義の実験ではありませんでした。ロシア革命は、レーニンによる仕事にも功罪がありますが、レーニン以後、個人崇拝と他民族抑圧の覇権主義的な誤りを犯し、社会主義に必要な自由と民主主義を否定する社会へと変節し、社会主義的な建設に至らないまま、崩壊しました。
中国は、資本主義的な発展に至らないまま、社会主義を建設しようとして、数多くの失敗を重ねながら試行錯誤を繰り返しています。この国には、社会主義的な生産関係もあるようですが、現在は資本主義を受け入れて、資本主義的な発展の過程にあります。しかも中国共産党による一党支配が行われ、国内では自由と民主主義を保障しないという大問題を抱えています。社会制度も発展途上なので、累進課税というルールさえ弱い、法体系的にもまだ未確立な面を数多く残した国です。
この国が社会主義に到達するのかどうかは、なかなか見通せないと思います。ソ連のように覇権主義的な誤りに陥り、他民族を抑圧する国になってしまう危険性もあります。
資本主義は、資本家と労働者階級のたたかいによって、民主主義と自由を拡大する歴史をもってきました。しかし、資本主義における自由と民主主義の発展は、階級闘争によってもたらされたものであり、資本主義を支配している側によって発展してきたものではありません。資本主義そのものが自由と民主主義を保障しないのは、日本の戦前の社会体制、現在の日本の右傾化がものの見事にそれを証明しています。
まあマルクス論について、レーニンとは違うと擁護すると予想したので・・・まあ~・・笑。ただ、マルクス論は敗北の論理であって、現在経済学とは全く無縁の論理です。ノーベル経済学は科学の経済学に贈られる。マルクス論はどちらかと言うとノーベル文学賞的なもので、科学ではありません。
またニュートン力学は違います。ニュートン力学を理解できないと相対性理論は理解できない。当然素粒子論も無理です。そりゃそうですよ、一種の数学の世界ですから・・・またニュートン力学は現在機械工学で生きている立派な理論で間違いではありません。
マルクス経済学と対峙している近代経済学は、現象経済学だと呼ばれてきました。商品とは何か、商品の価値とは何かを明らかにできず、この経済学の根本問題を解明できなかったので、その後の発展の道筋が変わってしまいました。統計や数学的な手法を用いて、傾向を分析し、経済的な動きを見ようとしますが、資本主義社会が、なぜ、このような矛盾をはらみ、問題を克服できないのか。という点に明快な答えがありません。マルクス経済学は、すべての成果を取り入れて、経済学を発展させるという立場に立っているので、数学理論と統計理論を駆使した近代経済学とも交流を深め、それらの成果を取り入れる努力をおこなっています。日本共産党も、経済政策をつくるときには、こういう立場に立って、理論交流もはかりながら政策を組み立てる努力をしています。
マルクス経済学は、商品の分析からはじまり、階段を登るように経済の現実の動き、現象を一歩一歩解明してきました。マルクス以後もこの経済学は、開かれた理論として今日の経済的な動きを解明する上で大きな力を発揮しています。マルクスが明らかにした資本主義経済の動きは、当然時代の制約を受けています。しかし、資本主義の基本的な経済法則を、その本質において明らかにしているので、理論全体が完全に古くなることはありません。ニュートンが古くならないように。
近代経済学は、資本主義の矛盾の克服を国家が経済に介入することによって、緩和しようとしました。それが、ケインズ経済学の流れでした。これに対し、労働法制と社会保障が足かせになっている、金融資本の自由な活動を阻害しているとして、新自由主義が台頭してきました。この流れは、アメリカのシカゴ大学に出発があり、この理論に基づく最初の試みは、軍事クーデターを起こしたチリ(アメリカの傀儡政権だった)で行われ、その「成果」(資本の側に利潤が蓄積した。国民の側が貧しくなった)を踏まえて、レーガン、サッチャーが経済政策を展開しました。
日本は、中曽根内閣が、この流れを受けて臨調行革路線を展開し国鉄の分割民営化と電電公社の民営化等を行いました。しかし、この途中でバブル経済が起こり、アメリカやイギリスが行った新自由主義的な改革(=構造改革)は中断しました。バブル崩壊後、この傷を埋めるように、膨大な公共事業が行われ、日本の借金が増大するなかで、橋本龍太郎内閣のときに構造改革路線が組み立てられ、その出発として、消費税の増税が行われました。しかし、これによって不況が深刻になって、今度は前倒しで公共工事をおこなうなどの対策がとられました。この流れを受けて、小泉内閣が成立しました。成立前の総裁選挙で、小泉氏は構造改革の断行を主張し、橋本龍太郎氏は構造改革は実行すべきではない、あの路線は誤りだったと主張しました。
小泉改革の成立によって、2000年から構造改革が実行に移されたということです。この改革の出発から10年以上がたった今、かなり問題点が見えてきていると思います。構造改革が社会の歪みを大きくしました。現在行われているアベノミクスは、ごちゃまぜの経済政策です。1本目の矢の量的規制緩和は、新自由主義的な政策です。しかし、2本目の矢の大型公共投資優先という政策は、ケインズ主義的なものです。この2つはどちらも国の借金を増大させるという共通点を持っています。
3本目の矢の成長戦略は、日本を世界でいちばん企業が活動しやすい国を作るということで、規制緩和と社会保障切り捨て、庶民増税、大企業の法人税減税という路線を採用しています。これは、小泉構造改革の加速化です。
来年の消費税増税が、日本の経済を奈落の底に突き落とす引き金を引くことになる。これが、いわば、今日のマルクス主義の経済学(もうこの名はあまり使われていません。マルクスの時代から100年以上がたち、マルクスの到達点で経済学を語ることは、まさにマルクスの名に反するものだからです)の見通しです。
日本共産党は、経済的な破綻を回避するために消費税の増税には、断固反対し、破綻を回避させて、国民経済を立て直そうと呼びかけています。
さて、この近未来の経済的な見通し。このマルクスの道を引き継いで歩み、現実の経済を分析し、方向を見出している理論が、現実の本質を射抜いたものになっているのかどうか。それは、すぐに明らかになる問題です。
近代経済学の流れを汲んでいる現在の新自由主義的な経済学は、アベノミクスを推進しているといっていいでしょう。日銀総裁に極端な量的緩和を推進する人を据え、日本の官僚機構のすべてを使って、推進しているこの経済政策が、日本の社会を発展させるものになるのかどうか。
ということではないでしょうか。
経済学の分野のノーベル賞は、自然科学の分野のように純粋ではありません。経済的な利害の対立を根底に置いている経済学は、階級闘争の理論の片棒を担ぐものになっています。経済学の分野では、自然科学と同じようにはいきません。巨大な資本を手に入れている側は、国家の経済政策をわがものにすることが、自らの利害に直結しているので、経済学は、自然科学のように純粋ではありえないのです。社会の支配的な思想は、支配階級の思想になります。民主主義のシステムと国民主権が確立している国は、国民のものの見方考え方を資本の側につなぎ止めておかないと、国民主権の国家が誕生して、自分たちの利害にもどづく政治ができなくなるからです。
ノーベル経済学賞は、このような力関係のもとで決まりますから、現在は、新自由主義の立場に立つ学者に賞が与えられる傾向が極めて濃くなっています。マルクス主義の立場に立つ経済学が、ノーベル賞をとることはありえないのです。それをもって、経済学の評価を下すのは、まったくの筋違いだということです。
マルクスを批判するのであれば、マルクスを知ってからにしてくださいとは言いません。資本論を読むこと自体が骨の折れることであり、かなり困難ですから。しかし、少なくとも近代経済学とマルクス経済学の根本的な違い程度は、理解をしていただいて、論じることは必要ではないかと思います。心ある経済学者の方々は、マルクスを無視できません。資本主義の危機が深まるたびに、マルクスのブームが起こり、資本主義はマルクスの亡霊に取り憑かれているとか、マルクスは現在の資本主義社会の中に生きているということが言われます。ここ数年間、玉石混淆ではありますが、日本でもマルクス関係の本が盛んに出版されているのもその一つです。
マルクス論を読もうとは思いませんよ・・・東芝さんの解説を読むだけで興味がなくなるような感じです。面白い本は読みますが、楽しくない本は読みません。学問は楽しいものだと僕は思います。苦労して学問をする必要はありません。
・・・・資本論を読むこと自体が骨の折れることであり、かなり困難です
そんな楽しくないことやりたくないからです。
相場も同じですよ。実はお金儲けになんかならないのですが、楽しいから相場をやっているのです。面白いものです。いろいろ経済に事が知るようになる。政治も関係する。・・・それが相場の世界なのです。
まあ・・・東芝さんとは学問に対する考えも違うのよねぇ~・・・東芝さんは難しいことを苦労して成し遂げるのが学問だと考えているのでしょう?僕は違います。興味あること、好きなことを考えて追求するのが学問だと思っています。
マルクス論を読もうとは思いませんよ・・・東芝さんの解説を読むだけで興味がなくなるような感じです。面白い本は読みますが、楽しくない本は読みません。学問は楽しいものだと僕は思います。苦労して学問をする必要はありません。
・・・・資本論を読むこと自体が骨の折れることであり、かなり困難です
そんな楽しくないことやりたくないからです。
相場も同じですよ。実はお金儲けになんかならないのですが、楽しいから相場をやっているのです。面白いものです。いろいろ経済の事が知るようになる。政治も関係する。・・・それが相場の世界なのです。
まあ・・・東芝さんとは学問に対する考えも違うのよねぇ~・・・東芝さんは難しいことを苦労して成し遂げるのが学問だと考えているのでしょう?僕は違います。興味あること、好きなことを考えて追求するのが学問だと思っています。
学問は、楽しむことが基本ですが、難しいことにも、ときにはがんばって挑戦してみたいと思います。その努力が、同じような問題に直面したときに、理解して前に進める力になりますから。
難しい問題は、単純化せずむつかしいまま、その形状に合わせて理解することが大事だと思っています。単純化は、ときに誤った認識を生み出します。
難しいことをシンプルにするのが学問だと思いますよ。東芝さんの論理はいつも重要な部分が複雑です。難しいという表現より複雑という表現が正しいと思う。
憲法9条と自衛隊の問題なんか理解に苦しむ論理です。それと物事は最後に単純にして判断しなければいけない。
複雑な内容は誤った判断をする。
そういうところが、僕と東芝さん違うところ。哲学的違うのです。
物事は単純なものから複雑なものへと発展してきました。最近複雑系という学問も研究されていますよね。事物の法則を把握するためには、まずは分類して共通点を見出し、比較検討するところからはじまりますよね。その時に必要なのは、連関の中から物事の本質的なものを取り出してくる作業です。実験は、因果関係が特定できるように、条件を絞り込んでその物質がどう変化するのを見るという作業です。しかし、その実験がもともとあった複雑な連関の中で決定的な役割を担っているかどうかは、なかなか難しいものです。
医学が、なかなか病名を特定できない原因は、ここにあります。
単純なものから複雑なものへ。捨象していた連関を一歩一歩回復して複雑な連関の中で何が決定的な役割を果たしているのかを見極める作業が、自然科学の分野でも必要です。ここに何年研究しても本質を突き止められないという苦労が横たわるのではないでしょうか。