前畑秀子生誕百年

雑感

7前畑秀子生誕百年記念講演会が橋本市の教育文化会館で開催されたので、講演を聞きに行った。「前畑秀子の苦節と栄光〜その生涯に学び、未来につなぐ〜」という表題の講演が木村華織氏(東海学園大学、椙山女学園大学非常勤講師)によって行われた。
開会が近づくと、会場は次第に人で一杯になった。

前畑秀子さん。
橋本市出身の水泳のオリンピック選手、日本人初の女性金メダリスト。おそらく、50歳を超えている人のほとんどは、この人の名前を一度は聞いたことがあるだろう。今日の講演では、有名な「前畑ガンバレ」というラジオの実況中継の音声が流された。

講演を聞いていると、前畑さん本人が書いたエッセイが思い出された。『’85年版ベスト・エッセイ集 人の匂ひ』という本に、兵藤秀子名でそのエッセイは掲載されている。文藝春秋の『ベスト・エッセイ集』は、日本エッセイスト・クラブによって選ばれたエッセイ集であり、1983年から2011年までの28年間、編集され刊行されていた本だ。
「『前畑ガンバレ』のプレッシャー」。エッセイにはこういう表題が付いている。
オリンピックの1932年(昭和7年)のロサンゼルス大会で前畑さんは女子平泳ぎ200メートルで銀メダルだった。優勝したオーストリアのデニス選手とのタイム差は0.1秒だった。
帰国した前畑さんを待っていたのは、なぜ金メダルを取れなかったのか、という避難めいた要求だった。
「あなたはなぜ、金メダルをとってこなかったかね」「私はそれがくやしくてくやしくてたまらんのだよ」「いいか、前畑さん、このくやしさを忘れずに、四年後のベルリンオリンピックでがんばってくれよ。日本の女子でメインポールに日の丸をあげられるのは、あなたしかいない」
日比谷公会堂の帰国歓迎会で当時の東京市長は、面と向かってこう言った。

前畑さんは、プレッシャーの中で「負けたら死んでお詫びしよう」と心に決めて、ベルリン大会に出場している。今日の講演の中でも、前畑さんのこの心情が紹介された。泳ぐ前に日本から大量のお守りや電報が届いた。電報は224通に登った。前畑さんは、日本の神に祈り赤いお守りを口に入れ飲み込んでいる。日本が戦争に向かっている時代の中で、オリンピックは国威発揚の場となり、選手は、文字どおり日本というものを背負わされていた。

前畑秀子さん。ぼくは、この名前を耳にするたびに、このエッセイを思い出す。負けたら死のうという心構えは、死ぬ気でがんばろうというものではなくて、負けたら死ぬ以外に考えられないという心境だったのだ。そこには、スポーツのもつ自由な雰囲気はない。前畑さんは、「金メダル!、金メダル!、私は前夜、ほとんどまどろむこともできなかった」と書いている。
前畑さんは、このような悲惨な精神状態のもとでも、ドイツのゲネンゲルに勝って金メダルを手にした。
頑張り抜いた精神力を誉めたたえる人が多いのだろうけれど、ぼくは、前畑秀子さんが背負っていた時代というものの重さについて、考えざるを得ない。時代の重さという問題が、ぼくの頭を離れない。

日本のスポーツは、戦争のない時代になり、戦争からかなり遠くにあるようになって、ようやく国の威信という重しを降ろしつつある。日本の期待というものと、選手の自由というものはいい意味で距離が生まれている。日本の期待というときの「期待」のニュアンスは、市民による期待へと変化し、国家が後継に退いている。選手は厳しい練習の中にも喜びを見いだし、自分の可能性への挑戦というものが、選手を支えるようになりつつある。
オリンピックで背負うべきものは、国家の威信ではない。日の丸の旗を身にまとい、ウイニングランで旗を風になびかせても、日の丸につながっているのは、日本で応援している人々になりつつある。

前畑さんが、負けたら死のうと決意したような時代は、過去のものになった。前畑さんたちが切り拓いてきたスポーツには自由がよく似合う。戦後、晩年までプールサイドに立ち続けてきた彼女は、多くの子どもたちを育ててきた。国民主権と民主主義を空気のように吸い込んだ今の若者たちは、自由にのびのびと水に飛び込んでいる。金が銀になったからといって、死のうと思うところに選手を追い込むような空気はない。プレッシャーも厳しさもあるけれど、それはオリンピック精神そのものに重なりつつある。
自分の目標として、
より速く
より高く
より強く


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雑感

Posted by 東芝 弘明