学力向上の名による教育破壊

雑感

かつらぎ町は、学力向上ということで全国の学力テストと県独自のテスト、町独自のテストを行っている。全国学力テストと同じような問題を繰り返し「練習」させて得る学力というのは、どのような学力なのだろうか。
学校というところは、子どもの成長の場、子どもの生活の場だと思われる。そこで必要なのは、子どもを丸ごと把握し、子どもに寄り添って伸ばしていくことではないか。全国学力テストというほんの一握りの側面をリトマス試験紙のように図って、その成績が悪いからといってそれを伸ばそうとするところに、どのような教育が成立するのだろうか。

一面的な側面を異様にクローズアップして、傾向と対策を繰り返しても、子どもを丸ごと捉えることはできず、空回りするのは目に見えているのではないだろうか。24時間の1日の中で学校で過ごしているのは6時間か7時間。18時間か17時間は、子どもは違うところで生活している。家庭環境はさまざまであり、自宅で勉強できる環境にない子どももいるし、習いごと漬けになっている子どももいる。そういう状況を深く把握して、教師が柔軟に具体的に対応するところで教育は成り立っているのに、それらの大切な時間を奪い取って、学力向上のための試験対策に明け暮れさせるのは、効果よりも弊害の方が多いのではないだろうか。

人間は、自分の力で自分の人生を選び取れるように育てるべきだと思う。そのためには、自由というものがどうしても必要であり、子ども自身が自分でよく考えることのできる環境が必要になる。自由な時間こそが、自主的に考えることを保障するのであり、自由な時間こそが子どもの成長の土壌になる。フィンランドでは、低学年の子どもたちは、たっぷり遊ぶ時間が保障されていて、遊びの中で子どもたちが自主的に学びとることを重視している。試験対策に追い立て、それでなくても過密なカリキュラムをこなす時間がより一層奪われている。こういう状況下で実現できる教育というのは一体何だろう。
自分の手でよかれと思いながら教育を破壊する。これが静かに進行しているのではないだろうか。


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雑感

Posted by 東芝 弘明