FaceBookと八百万の神

雑感

日本のインターネットでは、有名人と政治家だけが名前を明らかにするという匿名の世界が広がっていた。ブログも本名で書かれているものは少数派だった。そういう世界では、ニュースソースがしっかりしている情報に信頼が寄せられていた。企業の情報、官公庁の情報というように。
名前を明らかにしている人々の情報にも、一定に信頼性があった。
もちろん、匿名やハンドルネームで書かれているブログでも、書いている内容に真実性があれば、大きな信頼を得て多くの人々の心をとらえ、交流も深まっていた。
しかし、その一方で、匿名性を背景にして、誹謗と中傷合戦も巨大な規模でおこなわれてきた。犯罪にも活用されてきた。
なりすましの最たるものは、ニセのサイトだろう。

最近は、Twitterが大きな影響をもってきた。短いつぶやきが、さまざまな反響を読んで面白い変化が日本国中で起こっていた。変化には時間が必要なかった。こういう瞬時の変化は、携帯によるところが多いのではないだろうか。
時代は、スマートフォンに移行しつつある。みんなが小さなパソコンを持ち歩いて、インターネット上で情報交換を始める時代が、どのような変化を社会に与えるのかは、さまざまな人々の予想を大きく超えていくように思う。

匿名性の文化という傾向が日本にはあった。なぜ匿名性なのか。
ぼくが一番気に入っていた説明は、一神教と八百万の神の違いから解き明かしたものだった。
アメリカでのインターネットは、あんまり匿名性がないのだという。みんな名前を明らかにしてネットをおこなっているのだというのを本で読んだ。
それがどれだけ大きな規模でおこなわれているのかを確かめてはいない。その本で書いていたことを紹介してみよう。
アメリカはキリスト教による一神教を信仰する人々が多い。唯一絶対の神はたった1人の存在だ。神が1人しかいないというのは、どこに隠れていても、神がすべてを見ている。という考え方とつながっている。
教会にいって自分の罪を神父さんに打ち明けて懺悔をするのは、「神はすべてをお見通しです」という考えに基づいている。
インターネットで、本名を明らかにしてつながっていくのは、この信仰心から来ているのだ。

これに対し日本はどうだろう。
日本の八百万の神は、八百万と書く。木、湖、滝、川、山、海、空から始まって、動物にも神が宿っている。なにせ神様は、八百万もいるのだ。神が多いということは、神様がいないところも生まれてくるということだ。日本の神道の儀式である地鎮祭などに参加すると、降神の儀や昇神の儀などがある。神主さんが祝詞を唱えると神が天から降りてくるということは、降りてくる前は、神さんがいなかったということに他ならない。1人の神がすべてを見ているという考え方と、神さんが多いがゆえにいない場所もあるという考え方に大きな差がある。

日本は、神さんにばれなかったら悪いことをしても大丈夫という考え方が生まれてきた。「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉があるのは、漏らす恐れがあるから生まれた言葉だろう。日本社会のインターネットの世界に匿名性が主流になってきたのは、この八百万の神を生み出した精神構造にある。

この論理は大好きだ。何だか楽しい。
でも、最近、本名を明らかにして、どんどんつながっていくFaceBookがブレイクしはじめている。本名を明らかにし、顔も出身校も住んでいる地域(大きいけれど)や勤めている職場も明らかにしている人がいる。自分の姿を明らかにするということは、書くことに責任が生じてくる。このFaceBookが大きく広がると、世論をつくる力にもなるように思われる。
ぼくも遅ればせながらFaceBookをはじめると、中学校時代の友だちとつながったり、30年以上も会っていなかった同級生を発見できた。全国の日本共産党の議員の方々とつながることもできた。
つながることは楽しい。共感の輪を広げるところに特徴がある。
現在のぼくの使い方は、このBlogの記事をFaceBookにリンク(シェア)するということだ。色々な人の気に入った写真や記事もシェアする。そうすれば輪が広がる。
Twitterはどうも性に合わなかったが、このFaceBookは、顔が見えるので、現実に友だちができて、輪が広がるので面白い。
八百万の神の世界でも、正体を明かしてつながっていく時代が始まった。


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雑感

Posted by 東芝 弘明