人類の福祉とわれわれ自身の完成
マルクスが17歳のときに書いた論文の中に「歴史は、社会一般のために立ち働くことによって、自らを高め得た者を偉人と呼ぶ」という言葉があったということを知ったのは、自分が18歳のときだったような気がする。これは、マルクスがギムナジウムを卒業するにあたって書いた「商業の選択にあたっての一青年の考察」という卒業論文の一節だ。
ドイツ語が全くできないので、訳に頼るしかない。この訳し方は哲学者の真下真一さんによるものだったと記憶しているが、探しても見つからないので、それも定かではない。
最近の訳し方は、これとは違っている。ネットで検索した論文の中に「初期マルクスとキリスト教(一) ─少年マルクスとキリスト教─」(富沢賢治著)という論文があったので、この一節を引用しておこう。
「地位の選択に際してわれわれを導かねばならない主要な導き手は、人類の福祉、われわれ自身の完成である。この二つの関心が相互に敵対的に闘争し、一方が他方を絶滅しなければならないなどと、思い違いをしないように。そうではなくして、人間の本性というものは、こうして一緒に住んでいる他のすべての人々の完成と福祉とのために働く場合にのみ、自分自身の完成を達成することができる、という風にできているのである。」と述べていることである。
石川康宏さん(神戸女学院大学元文学部教授、名誉教授)はこの部分について次の訳文を紹介している。
「地位の選択にさいしてわれわれを導いてくれなければならぬ主要な導き手は、人類の幸福であり、われわれ自身の完成である。これら両方の利害がたがいに敵対的にたたかいあうことになって、一方が他方をほろぼさなければならないのだなどと思ってはならない。そうではなくて、人間の本性というものは、彼が自分と同時代の人々の完成のため、その人々の幸福のために働くときにのみ、自己の完成を達成しうるようにできているのである」。
志位和夫さんは、この一節を「最大多数の人を幸せにした人が最も幸せな人であり、そのなかでこそ本当の人格が完成する」と言う言葉で紹介している。
ぼくはこれらの言葉を、「まわりの人々の幸福のために働くことによって、自分自身を高める」という意味で捉えてきた。自分自身をどうやって高めるかという点で、大事だなと思っているのは、他の人のために立ち働くだけではいけないということだ。そのことを通じて自分自身を高めることが必要だというところに、自分の生き方がある。自分を見失ってはいけないということだ。
他人のために尽くし続けている人の中には、自分を見失っている人もいる。献身的なタイプの人にこういう傾向はありがちでもある。自分がない人は、他人にために尽くすことが自分の全てであるみたいな感じになっていて、まわりの人からすれば、自分にとって「都合のいい人」「便利な人」になってしまいがち。自分自身を高めるという目的が見失われた「献身」は、自分自身をも破壊する。ここを見誤ってはならない。
相手のために働くことによって、自分自身が何かを学び、自身が発展していく生き方がいい。そこに喜びがある。これを生き方の基本にしたい。これが、17歳のマルクスの言葉から学んだものだった。こういう生き方をした人々は、胸の内に誇りを宿してる。
社会一般のために立ち働くことによって自らを高めるというのは、NHKの「プロジェクトX」が描いている世界でもある。
会社の中で、新たな技術と格闘しながら新しい商品を生み出すことに光を当ててきたのが「プロジェクトX」の一つのテーマだった。
大きな会社の労働者の生きがいは何か。
労働は、商品の使用価値の生産にその目的と魅力がある。新しい技術によって、社会の役に立つ新しいものを生み出す行為というのは、具体的な労働であり、これこそが労働の本質でもある。しかし、会社にとって労働は、新たな交換価値を生み出して、商品と貨幣との交換によって剰余価値を社会的に実現するところにある。
労働者が生きがいをもって働くことと、会社の目的は一致しつつも矛盾している。商品生産による交換価値の生産という側面が、たえず使用価値の生産を阻み、蝕んでいる。大企業が商品生産の中で不正を働き、商品生産の中でコストの削減を図ろうとし、その不正が発覚するたびに、使用価値と交換価値との間の矛盾を感じる。この中で働く労働者は翻弄される。
マルクスは、17歳のときに自身が書いた言葉を生涯にわたって貫いた人だった。若いときにこの言葉に出会い、この言葉の意味を哲学者の人の本によって得た意味は大きかった。議員としてどう生きるかというときに、17歳のマルクスの言葉が、いつも胸の中にある。それはこの30数年間、変わっていない。若者が社会に出ようとするときに、社会のために生きることを通じて、自分自身を高めるというテーマは、やはり生き方の中心命題の一つになると思う。自己実現と社会との関わりという点でも、マルクスの17歳のときの言葉は新しい。
東洋思想でも同じかもしれません。朱子学では修己治人、己を修めてから、人を治める。ですが、陽明学では、事上磨錬。人の中に入り、実践を通して、自分の技術、学識を磨く、になるようです。また脱線かもしれませんが、日蓮も結局同様のことを主張します。十界互具、一気に自分を高めるのみならず、広宣流布、人をも高めることが重要と説くようです。無関係かもしれませんが、類似がちょっと思い当たりました。
なるほど。仏教の「忘己利他」(もうこりた)は、自己を忘れ他人のために尽くすですが、これは、本当は良くないなと思います。自分の成長と幸福と他人のために尽くすことは、つながっているんだということが大事なのだと思います。
心理学の一つ、エニアグラムの特質(性格分類)は9つ。人間の特質(性格)の中の一つに献身家というタイプがあり、相手に徹底的に尽くす人がいます。このタイプの一番大きな弱点は、相手に徹底的に尽くすことが、自分の生きがい、生き方みたいになって、自分を見失うところにあります。他人に対して献身的になることが自己目的化した人は、自分のことをあまり考えなくなり、子どものために尽くしたり、異性に尽くしたりします。別の言い方をすると、相手に依存しつつ生きるということです。こういう女性が男性に尽くす場合、男性にとってその女性は、「都合のいい女」になってしまい、捨てられる傾向が強まります。忘己利他でもときにはいいのですが、自立した自分を見失ってはいけないということだと思います。