井上ひさしさんの文章

雑感

読み始めて止まっていた、井上ひさしさんの「ボローニャ紀行」を読み始めた。読み始めると、この人は、自分でも「遅筆」だと書いていた記憶が浮かんできた。ユーモア溢れる文章を読み進んでいく内に「遅筆」という言葉が繰り返し浮かんでは消えていく。波が押しては引いていくように。
井上ひさしさんの「遅筆」は、ただ単に書くのが「遅い」のではない。滑らかに流れていく文章には、井上さんの素朴さがあるにもかかわらず、その底には、緻密な積み重ねを感じる。スッとさりげなく書いているのに、書かれている文章には、膨大な井上さんの調べる力が織り込まれている。いとも簡単に、惜しげもなく、普通の人なら得意満面になって書くところをしなやかに、滑るように書く。それでいて、表現の軽さにも心配りがなされていて、ユーモアを文章の基調にしている。
この人の文章には、井上ひさしを真似て書く、というような簡単なことを許さない深さがある。形だけを真似しても、真似なんてできない。カジュアルな文章なのに、その背景には膨大な調査と推敲がある。これが、読み進んでいく中で波のように押し寄せてきた。「遅筆」という言葉は、その努力の結晶のようなものだった。
勢いだけで書かれていない文章。何重にも井上ひさしという人間のフィルターをこして、抽出された文章。「ボローニャ紀行」には、文章について何にも書かれていないのに、ぼくはそんなことを考えていた。

日々、書き重ねて行く文章に深いものを織り込んでいくなんていう芸当は、なかなかできない。結局は、ものを見る力、体験したことから学びとる力、見たり体験したりしたことを出発にして、物事を広く見たり深く見たりすることのできる力。こういうものがあって、はじめて文章に深みが出てくるように思う。考えを自分の中にためて、折にふれてそれを深めて、というようにして、紡ぎ出したものには、文章に中に艶がある。文字によって綴れた中から読み手に幾通りかの印象を重層的に感じさせるような文章。こういう文章は、なかなか滅多に姿を現さない。

井上ひさしさんの文章は、リンクの上で舞うフィギアスケートの演技のようなものなのかも知れない。筆者の苦労は、全部綺麗に内に秘めて、軽やかに、時には力強く、流れるように綺麗に描いていく。日頃の膨大な努力は見事に隠されている。
11月12日、娘の授業参観で「松尾芭蕉」の「おくのほそ道」の冒頭の文章を読み取る授業を見せてもらった。松尾芭蕉は、この紀行文の書き出しにどれだけ精神を集中し推敲を重ねたのか。授業から受けたのはこういう思いだった。井上ひさしさんの文章にも同じような気配を感じる。

ぼくの「文章には深みがない」という指摘をおこなった友人は、こういうことをいいたかったのかも知れない。物事に対する深い考え方に根ざしたものが、そこに書かれているかどうか。そういうことが試されているのかも知れない。


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雑感

Posted by 東芝 弘明