サプライサイドの経済学 2005年9月2日(金)

雑感

Blogを書き始めてもうすぐ丸8か月。毎日日記を付けるということが一つの目標だが、もう一つの目標は、文章を自由自在に書けるようになることだ。
大量の文章を毎日書くことによって、講演でも演説でも文章を書くように言葉が自由に出てくるようになる。齋藤孝さんはそう書いていた。
今日は、街頭でマイクを握った。演説の組み立ては、漠然としていた。しかし、斎藤さんがいうように文章を書くように言葉が出てくる感じだった。
「大量に文章を書けば演説が自由自在になる」
そんな感じがした。
ぼくにとっては画期的だ。
なんだかうれしい。
昨日書いた文章は、自分の感想のようなものなので、「論考」というレベルのものではない。文献にも当たっていないので、印象という域を出ない。
……というか、自信がないので言い訳を書いておく。
どうも、未完成なものを書いたという感じが尾を引いて居心地が悪い。
それでもなお、昨日の続きを書いてみたい。
日本の資本主義にとってバブル経済というのは、かなり深刻なイレギュラーだったような気がする。東京の地価の高騰から始まったバブル経済は、70年代の後半から始まっていた首切り合理化という方針の延長線上にはないあだ花だった。
銀行が不動産業界に大量に資金提供をおこない、不動産業界が土地取引のキャッチボールをおこなった。しかも、仕掛け人だった銀行業界も、バブルの甘い汁を吸うために時限爆弾入りのそのボールを大量に購入し、リゾート開発などに狂奔した。
しかも、政府は、このバブル経済に目を付けて、固定資産税が地価の高騰に合わせて段階的に引き上がっていく仕組みを作った。固定資産税の評価額は、売買実例価格の20%〜30%だったのに、これを70%に引き上げ負担調整と称して徐々に70%に近づくような仕組みを作った。この仕組みによって、バブルが崩壊し地価が下落しても固定資産税が引き上がるという現象が出現した。この政策は、完全に破綻したのに現在もなおマイナスの負担調整をおこなってつじつまを合わすということしかおこなわれていない。
バブル経済は、「いつかはじける」といわれ続けていたが、やはり衝撃的にはじけた。
バブル経済の傷は深かった。不況が始まった。それは失われた10年とよばれる90年代の始まりでもあった。しかも、この傷がまだ明るみになっていないときに日本政府は、景気対策と称して巨大な公共工事をおこなった。民間需要の低迷を公共事業の供給によって、かなりの長い期間、穴埋めするような状況が続く。
バブルの崩壊は、ソ連の崩壊よりも2年ほど遅れてやってきた。市場経済万歳論は、バブル経済とは何か、投棄をあおった責任はどこにあったのか等々を不問にし、経済の低迷は新自由主義路線で克服できるという巨大な流れがつくられた。
新自由主義の路線は、現在の経済が抱える問題の処方箋にすらなっていない。
小泉さんは、橋本内閣が実行に移し始めて頓挫していた構造改革路線を復活させ、ブレーンとして竹中さんを政府の中に招き入れた。
新自由主義にも様々な色合いがあると思われるが、竹中さんの理論はサプライサイドの経済学と呼ばれるもののようだ。
この論理は、極めて奇妙なものだと思う。
サプライサイドというのは、供給側のことである。つまり銀行が健全化すれば、資金の供給が潤沢におこなわれるようになり、資金が潤沢に供給されるようになると企業が活性化し、景気が回復するというものだ。
この考え方は、経済の仕組みを理解しないものだ。
経済の基本は実体経済だ。つまりものを作る、それを市場で販売する、市場でものが売れるという部分が活性化しないと景気は回復しないし、経済は上向かない。銀行が不良債権を処理し、自己資本比率を高め、経営を安定化させても、日本経済が回復してこないのは、実体経済の部分が冷え込んでいるからに他ならない。実体経済を活性化させるためには、どうしても購買力を引き上げる必要がある。サプライサイドの経済学は、一番最後に儲けをあげるはずの銀行を最重視するもので、経済の流れをまったく逆さまにとらえるものである。
日本の銀行は、実体経済を支え、資金を融資し、企業の発展とともに大きくなってきた。これは間接金融という投資の仕方だ。しかし、間接金融で動く資金の流れは、マネーゲームで動いている資金の流れと比較すると微々たるものになってしまった。日本の銀行資本が、国際競争に打ち勝つためには、お金がお金を生み出すマネーゲームの分野で資本の増殖をはからなければならない。こう信じ込まれている。お金がお金を生み出す世界は、誰かが得をすれば、必ず誰かが損をする世界だ。お金が新たな価値を生み出しているのではない。しかし、金融市場は、間接投資から直接投資へシフトしているし、それが発展だと信じられている。
郵政民営化のねらいもここにある。国民から預けられている保険と貯金の残高340兆円をマネーゲームに振り向けるとき、民営化された郵便局は、投資を投資信託会社に委託すると考えられているのだ。投資信託会社自身は、このマネーゲームで儲けをあげるのではなく、マネーゲームに参加する個人の資金を扱うときに発生する事務手数料で儲けをあげることを考えている。野村證券などと同じだ。
金融市場というのは、実体経済から生まれたものだが、実体経済に環流できない巨大な資金で国際的なばくちをおこなっていると言っていい。これらの資金は、一国の経済を破壊する力をもっている。
サプライサイドの経済学の考え方にもとづいて、不良債権処理が進められ、小さな金融機関を淘汰し、大銀行を再編するという方法が取られた。この理論からいえば、銀行資本に30兆円の税金を投入するのも是ということになる。
現在、銀行には貸し付ける資金が潤沢に存在する。一方大企業は減税とリストラによって金余り現象になり、資金がだぶつき始めている。サプライサイドの経済学理論にもとづき、企業は活性化し、銀行は経営状態を改善させた。竹中さん流にいえば、銀行と企業が巨費を投じてマネーゲームに熱中できる条件がようやく整ったので、めでたし、めでたしなのかも知れない。
企業も銀行も国内には投資先がない。仕方がないので銀行は国債を大量に購入している。
減税を進めリストラを推進したのは政府だ。民間企業が自由に活動できるように、規制を緩和し、民間企業が動きやすいように、生産部門にまで派遣労働を認めるようになった。しかし、この政策は必然的に国民の側の購買力を奪い、雇用を不安定にし、国内市場を小さくする作用を生み出した。
資金は海外に向かわざるを得ないだろう。竹中さんのやったことは、日本の企業をよりいっそう多国籍企業化させることだったのかも知れない。
戦後日本が高度経済成長を準備できたのは、農地解放によって農家が土地という生産手段を手に入れることができ、農家の所得が飛躍的に向上したからだ。国民全体の所得向上が戦前の日本に特有だった国内市場の狭さを克服した。国民の所得の向上による購買力の向上なしに戦後経済の発展は考えられない。
サプライサイドの経済学は、大企業にてこ入れし自由を与えるために国民から所得を奪っていたが、これは国内市場を狭めていく道だった。
増税によって経済は回転しなくなる。国内市場がよりいっそう狭くなる。日本経済の6割を占める購買力を痛めつける経済政策に未来はない。
日本社会にもヨーロッパ並みのルールをというスローガンを日本共産党は掲げている。国民所得が伸びれば、高齢化社会が到来しても介護サービスや福祉サービスを受けれるようになる。購買力の向上も期待できる。内橋克人さんも「もう一つの日本は可能」だといっているが、日本国憲法が示す方向での福祉国家をめざす道は、経済活性化の展望として残されている。
小泉さんも竹中さんも未来が見えないことだけは自覚しているようだ。2人は未来の日本の姿を国民に提示しない。構造改革から4年4か月。
「痛みの先に未来がある」
小泉さんは、使い古されたスローガンを、たてがみを振り乱して語る。
その顔はこわばっている。

雑感

Posted by 東芝 弘明