奥田碩経団連会長が語る小さな政府 2005年9月1日(木)

雑感

総選挙の期間中は、「雑感」が多くなります。あしからず。
構造改革とは「小さな政府」をめざすもので、「今まで国や自治体が負担していた行政サービスを、国民自らの負担でまかなうのか、やめてしまうのかという話です」
奥田碩経団連会長が2002年に語った言葉である。小さな政府とは、政府や自治体を小さくして国民の負担を大きくするものだ。「小さな政府、大きな負担」だ。
イギリスのサッチャー政権も「小さな政府」というスローガンを掲げ、中曽根内閣も「小さな政府」を掲げた。自立自助という言葉を打ち出したのも中曽根内閣だった。
この路線は、経済学的にいえば、新自由主義という立場に立つものだ。
いま、新自由主義の嵐が日本全国を席捲しているが、これはケインズ主義の否定でもあった。
ケインズは、資本主義を市場の自由にまかせたら過剰生産恐慌はさけられず、貧富の拡大などの問題を引き起こすので、国家が経済に介入して、恐慌を克服し資本主義をコントロールするという考え方だ。
ケインズの考え方は、やがて多くの資本主義国の公式の方針になった。
だが、機械制大工業は、やがて高度化し機械と働くものの比重を変化させていく。機械に対する人間の比率が次第に縮小していったということだ。いわゆる資本の有機的構成の高度化とよばれるものである。
この有機的構成の高度化は、公共事業でも顕著に表れるようになる。そうなると公共事業の増大が雇用の確保にはつながらない。
国民の所得は、高度経済成長の元で大幅に引き上がった。しかし、物価も倍増した。だが生産性の向上にともなって、電化製品などは次第のその価格を下げていった。企業の生産した様々な商品は、クレジットシステムの構築とも相まって家庭に大量に購入され、家庭生活を劇的に変化させていく。
所得の向上は、企業が市場に投入した商品を買う購買力を国民に与えた。国民の所得を倍増させることが、企業の市場を相対的に拡大する役割を果たしたということだ。
しかし、公共事業の拡大が雇用の拡大につながらない時代がやってきた。公共事業を支えてきた鉄鋼、機械、化学、電機等々の重厚長大な生産部門でも雇用力は低下していく。
それでも、政府は大型公共事業をおこない、日本列島の開発と再開発を繰り返した。世界に冠たる土建国家の誕生だった。
膨大な公共工事が膨大な財政赤字を生み出し、国の借金は700兆円を遙かに超えた。
この中で出てきたのが構造改革である。新自由主義の市場万能論は、ソ連の崩壊と無関係ではない。ソ連の社会主義だといわれていた体制が崩壊することによって、市場の勝利が高らかに宣言され、市場万能論が幅をきかすようになった。日本では、日本におけるケインズ主義の総括もなされないまま、国家が経済に介入することが、間違いだと決めつけた。
新自由主義は、自由主義経済という古典的な市場万能論の復活である。何が新しいのかといえば、資本主義の黎明期と資本主義の爛熟期の違いだろう。同じ自由主義でも、対応すべき部門は、驚くべき生産力と巨大な体制をもっている。しかし、時代的背景がいかに違おうとも、新自由主義は、資本主義を先祖返りさせる取り組みである。
しかし、この新自由主義による構造改革路線は、路線上の破綻が数多く見られる。先行きに展望がないから、未来への希望を語れず国民の引きつけるプランを提示できない。「痛みの先に希望がある」と叫ぶだけだ。
「もう一度、世界を股にかけた競争を」=メガコンペティション、こう叫びながら、住専に税金を投入し、民間銀行にも30兆円を投入した。このやり方は、新自由主義といいながら護送船団をしっかり守るという方法だ。まさに「自由競争の上に成り立つ独占である」。
巨大な資本の規制を取り除く新自由主義は、人類の新たなパンドラの箱を開きつつある。
奥田碩氏の言葉をもう一度かみしめていただきたい。
「今まで国や自治体が負担していた行政サービスを、国民自らの負担でまかなうのか、やめてしまうのかという話です」
国民が負担するか、それとも廃止するか。この発想には、国と自治体がサービスを続けるという選択肢はない。これが経団連という資本家集団の赤裸々な要求だ。
眠たい。思考が働かなくなった。話が難しくなってしまった。
続きはまた今度。


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雑感

Posted by 東芝 弘明