資料と妄想との間にある歴史ロマン

雑感

歴史と歴史ロマンについて書いてみよう。このテーマは2回目かも知れない。
歴史の研究は、具体的な資料によって行われる。いきなり歴史について語る前に、資料が潤沢に存在する現在の話をまず書いてみよう。人間のさまざまな意思の決定によって、色々な問題が発生し、それが歴史を形成していく。人が集団で動く場合、さまざまな意思が絡み合って出来事が紡ぎ出される。縦横斜めの力に加えて、空間的にも力がさらに加わって3次元の世界でいろいろなことが発生している。さらに全ての力は、時間軸に沿って運動し変化していく。時間は、事物の運動によって描き出される経過だから、全ての出来事は空間と時間の中で生まれている。さまざまな力がどのように影響し合って変化が生まれてくるのかを捉えようとしても、それは不可能だと思う。全ての出来事の全側面が明らかになっていて、出来事が展開していくことなんてあり得ないだろう。明らかにならない部分、未解明な部分を沢山残しながら物事は進んでいくし変化していく。

たとえば安倍首相の昨年の辞任。社会的には、なぜ辞任したのか、公式な見解は「病気の悪化」だった。しかし、安倍さんは入院しなかったし、対外的にはそんなに病気が悪化したようには見えなかった。内閣総理大臣の職務は、分刻みなので激務だし、責任の重さは半端ではない。しかし、真相は明らかになっていないのではないだろうか。言いたいのは、現在進行している事でさえ、ガラス張りのように見えることは少ないということだ。

それは、たとえ家族という最小単位の人間関係でさえ捉えがたい問題をはらんでいる。人間の意思は、実は明確でないことの方が多い。人間の行動の7割は、毎日同じようなルーチン的な動きによる。
「あのときなぜ私はこうしたのか」を問いかけても、本人でさえはっきりしないことが多いのは、人間は明確な意思を持つ前にすでに脳が反応して動いているからだろう。こういう人間の行動によって、出来事が起こるので、全ての行為に対して、合目的的な理由を探しても究極的にははっきりしない。脳科学者は人間には明確な「意志」はないということを指摘している(意志がないので、この文章の中では意志という言葉ではなく意思を使っている)。自分の意思が何によって左右されているのか、はっきりしないまま、他人との関係で物事が確定していくので、色々な事件を底まで明らかにしようとしても、根底には不合理さがつきまとう。交通事故がいい例だろう。「どうして、あのときにこういう判断をしたのか」と問われても判然としないことが多い。確定していたと思われる出来事であっても、新たな資料の発見によって見方が変わることは多々存在する。
人間の意思にしても判然としなかった意思が、時間の経過によって自分でも「こういうことだったんだ」と分かる場合もある。自分を客観視できるようになって始めて見えてくることもある。

歴史は、そういうことの積み重ねとしてできいていく。それを紐解いていくのが歴史学だということだろう。過去の出来事を読み解いていくためには、資料が全てのカギを握る。資料というのは、紙ベースの情報だけを意味するものではない。古代であれば、建物の遺跡や土器、瓦などさまざまな出土物という資料によって研究が重ねられていく。

資料が少ないので、専門家は資料と資料との間の失われた環についても考察を試みることを繰り返す。その考察を証明するのは新たな資料だろう。資料に基づいた判断と考察。資料から離れていく考察は妄想のようなものに転化する。考察なのか妄想なのかの境目はない。資料から離れすぎると考察は妄想になる。

資料と妄想との間に歴史ロマンがある。調べ始めると失われた環への思いが強まって、イマジネーションが豊かに花開く。豊かなイマジネーションは妄想の最たるものだ。しかし、ここにこそ歴史ロマンがある。歴史の楽しみには、豊かなイマジネーションによる妄想があるといっていいだろう。

アマチアが陥りがちなのは、この豊かなイマジネーションに深く囚われて資料と妄想との区別がつかなくなる点だ。以前、長年探求してきた結果、ほとんどの人が知らない歴史の事実を把握したと言われ、「一度読んで見てほしい」と言って分厚い原稿を手渡されたことがある。文章をめくっていくとかつらぎ町に実在していた歴史上の人物が、「○○○○」というセリフを発して、その歴史的瞬間にこう語ったという下りがあった。ぼくは読みながら「このセリフはウソだ」と思ってしまった。歴史的事件は起こったのは確かだったと思われるが、その瞬間に語った言葉が、資料としては残っていないからだ。文献にきちんと語った言葉が書かれているのなら、確かにそういうことを言っただろうとは思う。資料がない限り、そのセリフを史実だと言って人に渡してはならない。その時はそう思った。

資料に基づく歴史を伝えることと、資料をもとに物語を作ることとはちがう。三谷幸喜さんは、『真田丸』の脚本を執筆したときに、資料がないものについては、間を埋める物語を自由に展開できるので面白いという意味のことをテレビで語っていた。なるほど、なかなかいい発想だ。

資料と資料との間に花開く歴史ロマン。豊かに膨らむイマジネーション。ここに歴史の面白みがある。でも、この豊かなイマジネーションを史実と混同する危険性が同時に存在する。でもね、それがたまらないくらい面白いということでもある。


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雑感

Posted by 東芝 弘明