地方自治体と社会主義

雑感

山崎亮さんの本、『僕らの社会主義』を読んだ。面白かった。Amazonの書評では、この本は、エンゲルスが空想的社会主義を切って捨てたとか、マルクスと対立しているかのように書かれていたが、読んで見るとマルクスとエンゲルスを批判しているような本ではなかった。空想的社会主義者の人たちに敬意を払いながら、社会主義のいいところをつまみ食いすればいいというものでもあった。その自由な発想が面白い。山崎さんは、建築家で地域の中のコミュニティをデザインして、人々を元気にさせ自治体とコラボレーションさせている人だが、この人が建築家のさまざまな思想を通じて社会主義に魅力を感じていることが面白かった。地方自治体と住民参加という実践を通じて社会主義に魅力を感じてきたというのは新鮮だった。

以下に書くことは、山崎さんの本の内容ではなく、議員として本を読んだ感想だ。
地方自治体における住民と自治体のコラボレーションは、参加型の住民自治だという捉え方だが、二元代表制との関係の中で、住民参加をどう捉えるかは充分に整理されていないと感じてきた。しかし、そもそも、住民生活に必要な共同の仕事を自治体が引き受けて管理をするという仕組みは、資本主義社会の中では異質な側面をもつと言っていいということだ。未来社会において、地方自治体のあり方を考えてると、主人公である住民が自分たちがつくった共同の事務をおこなう自治体という機関を、自分たちも担い手になって運営していくようになるだろう。
社会の分断が進んで役割分担がなされている今日の日本の資本主義においては、議員や首長は一定の役割を果たしているが、遠い先の未来社会において、地方自治体はもっとシンプルな形になって、首長も議員も必要のない形になると思われる。共同事務と共同運営になれば、遠い将来、議会は必要なくなると思われる。首長というのもその役割を終えるだろう。

現時点で自分のスタンスとして持っておきたいのは次の点だ。住民と地方自治体との関係を風通しのいいものにしていくためには、議員の果たしている役割を理解しつつも、一住民としていっしょにまちをつくるろうということだ。住民と一緒に汗をかく場合、議員という肩書きは全く必要ない。ただし、自治体と必要な交渉を行うときに、議員という肩書きがものをいうケースはあるだろう。

未来社会において、地方自治体としっくり合致するのは社会主義で、最終的に自治体に残るのは、自由と民主主義、住民たち自身が主人公ということだろう。こういう視点で自治体を捉え直すことができた『僕らの社会主義』には感謝したい。

山崎さんの本を読んでいると、この本は、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』と底流でつながっているなと感じた。つながっているのは社会主義の捉え方だろう。斎藤さんは、『人新世の「資本論」』でマルクスは、脱生産力至上主義の立場を克服して、生産力を発展させる=社会の進歩という立場には立っていないことを強調している。晩年のマルクスは、生産力至上主義ではなかったというのは新鮮だったが、資本主義的な蓄積が地球を破壊し、人類の生存を脅かしている今日、この解明は、大きな力になるものだと思う。

日本共産党の描いている未来社会論は、斎藤氏が書いていることと親和性がある。斎藤氏は、「肝心なのは、労働と生産の変革なのだ」と書く。
「実際、旧来の脱成長派は、消費の次元での『自発的抑制』に焦点を当てがちである。節水・節電をして肉食をやめ、中古品を買い、物をシェアするという風に。ところが、所有や再配分、価値観の変化だけに注目し、労働のあり方を抜本的に変えようとしないなら、資本主義には立ち向かえない」(「人新世の『資本論』」P292)

最も大事なのは生産と労働の在り方、つまり生産手段の社会化によって、生産の在り方を変え、働き方を変えることが、消費や分配よりも大切だというのは、卓見だと思った。しかもこの視点は、地球温暖化を阻止するために、自分たちの消費行動を変えようと訴えるだけに留まって、資本主義的生産に目を向けないことに対する回答にもなっている。


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雑感

Posted by 東芝 弘明