戦争に荷担しようとしている人々への問いかけ

雑感

戦争が始まるとき、国民の中に戦争を受け入れるエネルギーが生まれてくることを感じている。騙されるというだけではなくて、積極的に戦争の片棒を担いで、戦争反対を主張する国民の敵対していく。政治家の戦争への協力を批判するのと同じように、国民の中に生まれている戦争を受け入れる傾向も、批判されなければならないと考える。

以前にもこの問題については書いたことがある。しかし、もう一度、今日的な問題として、主体性をかねそなえた人間の生き方が問われているので考えてみたい。
ドイツは、戦後、ある時期から若者が中心になって、親の世代がヒットラー政権に荷担し、協力した責任を問い始めた。
どうして国民は、ヒットラーが生み出した独裁政治に騙され、荷担していったのか。
この問いは非常に大きかった。批判は、自分たちの親の世代に対して向けられた。
その結果、ファシズムを二度と台頭させないために、物事の本質を自分の頭で見抜くことのできる国民への教育、国民の育成という方向へドイツは向かっていった。それは、徹底的にヒットラー政権に協力した軍人の戦争責任を追及するということと一体のものとして進められた。

日本では、こういう反省の仕方はなされなかった。
中国政府は、日本人民には戦争の責任がなく、戦争の責任は戦争を遂行した勢力にあるとしているようだ。しかし、こういうものの見方は、突きつめていけば、命令を下した指令者が悪いのであって、戦争を実際に遂行した国民には責任がないというのに等しい。これは、人間はロボットのように命令で動くと考えているような議論ではないか。これは、人間を主体性をもった存在として捉えない見方であり、中国政府の人間観の遅れを示すものだと思われる。

ぼくの父親は、戦争中に罪のない中国人をたくさん殺害したという。斥候という軍の中の仕事によって。
父に戦争責任はないのか。
極めて重大な戦争責任があり、批判されなければならないと考えている。戦後父は、酒浸りになって戦後21年たって、死んでしまったけれど、父の人生には、極めて重い加害責任がつきまとっていたと思われる。戦争の犠牲者であり加害者だった父。ここに父の苦しみや悲劇があったのではないだろうか。
軍の命令には逆らえなかった。
という意見があるだろう。でも、逆らえなかったから、命令に従っただけだから一切責任は問われない、というのはいかがなものか。
国民の中には、銃後を守ると信じて、積極的に日本政府に従って動いた人々がたくさんいる。じつはこういう人々の方が多かったのかも知れない。戦後、こういう態度を取った人々の責任は、すごくあいまいにされてきた。戦争への協力問題は不問にされてきた。

共産党の中には、国民の変革のエネルギーに信頼を寄せようという意見がよくでてくる。しかしこれは上から目線ではないだろうか。国民が真実を見抜けないまま、騙されて動いているのは、マスコミや政府が真実を伝えないからであって、騙されている人々は、本当のことを知らされてないだけ。国民が騙されるのは仕方がない。それよりも、日本社会を変革しようという力は、国民の中に強く存在しており、これに信頼を寄せてたたかおう。というようなものだ。国民の側には責任がないという見方は、中国政府のいう日本国民には責任がないというのによく似ている。

戦争に協力しようとする人々の責任は重い。「あなたの発言は国民を騙すもの。政府に迎合して戦争をあおるもの」という視点で、その人の生き方に迫るような問いかけをすべきではないだろうか。本質を見抜けないで騙され、戦争への道を熱病のように駆り立てられている人々、中国や韓国の人々を口汚くののしっている人々に対し、物事の本質がどこにあるのかを考えてもらう問題敵意が重要になる。大切なのは、問いかけだろう。自分の頭で考えて本質を見抜く力が問われている。

著名人の方々が、赤旗に登場して勇気ある発言を重ねている。その一方で本質をみないで、体制に流されながら迎合している人々が存在する。多くの人々は、波風を立てない生き方を選び、大勢に迎合し、不合理なことにも手を染めて生きている。それは、日本人らしい生き方かも知れない。しかし、そのような生き方が、日本人の首を絞めて、身動きの取れない社会の流れを作りだしてきた。
勇気ある発言のあとをついていきたい。社会のなかで起こっている問題に積極的に関わって、勇気ある発言の側に立つ人に拍手を送り力を合わせたい。

時代の流れは、「市町村合併やむなし」の大宣伝のなかでも作り出された。あの時も熱病のようだった。冷静に考えればわかる問題が、合併して当たり前という流れを大規模に作り出す中で、そこに押し込めようという形になった。
一定の立場にある人は、自分の主張を述べない傾向にあった。「合併反対」ということを主張するのには勇気がいった。熱病が醒めれば、物事の本質はよく見えてくる。熱病のような流れが作られているときに、勇気を振り絞って洪水に逆らうような生き方を選択して立ち向かうことが問われている。

「戦争反対」「憲法9条を守れ」──この主張があたかも、日本共産党の主張であるかのような、特異な思想であるかのような所に押し込められる、洪水のような流れが作られている。公務員が身を縮めて憲法擁護を口にしにくくなっている。日本国憲法の精神に反する一切の改正を認めないはずの原則を歌った憲法なのに。
安倍総理のしていることに興味や関心をもたず、集団的自衛権や特定秘密保護法を横目で見て、やり過ごしていく人々の多くは、どうしても体制に流されていく。大勢が賛成といえば賛成、大勢が反対と言えば反対という処世術で世の中を渡っていく先に待ち構えているのは戦争だろう。
国民主権が踏みにじられても、意に介さないで、自分の周りにある自由と民主主義に寄りかかり、個人のプライバシーを守れといい、自分勝手な主張と利益をふりかざしているうちに、本当の意味の民主主義と国民主権は窒息死させられる。自分の最大の拠り所が壊されていても知らない人が多い。
「日本は戦争なんかしないって。安倍さんはしないって言ってるやん。積極的平和主義っていってるやん」「放射能は湾の中で完全にコントロールされている、だから原発事故は大丈夫。総理大臣が約束したんだから」
そう思っている人は、進んでいる暗黒が見えていない。
戦争反対と憲法9条を守れという運動を高めないと、守れない平和がある。目を見開いて時代の動きを読み、勇気ある発言を信頼して立ち上がらないと、とんでもない時代がやってくる。このような時代を作り出さないためにも、戦争に迎合する動きに対しては、鋭い問いかけをすべきだと思っている。

どう生きるか。戦争に反対する人にも、戦争に賛成する人にも、この問題が鋭く突きつけられている。

雑感

Posted by 東芝 弘明