学問の自由と批判的精神
全国学力テストの結果が発表された。応用力が弱いという結果になっている。
応用力のある本物の学力を身につけるためには、物事を肯定的に理解しつつ、同時に批判的にとらえるものの見方、考え方を身につけることが必要になる。
日本の教育は、この点で極めて大きな、根本的な問題を抱えている。
体制に従順な人間を育成し、企業の役に立たせたいという思惑と
真に科学的なものの見方、考え方とは根本的に矛盾している。
科学的なものの見方、考え方には、タブーを怖れない真理探究の精神が最も重要になる。
原発問題を例にとってみよう。
安倍総理は、福島原発事故を引きおこした国、日本だから、あの事故から教訓を導き出して、世界一安全な技術をもっている。というような意味のことを言って、原発を輸出し再稼働しようとしている。
本当にそんなことをしていいのかどうか。
見極めるために具体的に問いを立ててみよう。
原発はどのような仕組みで電気を発生させているのか。
原発の技術は安全か。軽水炉とは何か。沸騰水型原子炉と加圧水型原子炉との違いはどこにあるのか。
福島原発の事故はなぜ起こったのか。地震が原因なのか、津波が原因なのか。
そもそも、なぜメルトダウンが発生したのか。
事故による放射能汚染はどうなっているのか。
国のいう安全基準とはどのようなものなのか。
除染とはいったいどういう作業なのか。
福島原発事故の教訓によって、どのような改善がなされたのか。
なぜ原発を輸出しようとしているのか。
原発が1基も動いていないのに電気は十分足りている。どういう仕組みで電気は作られているのか。
福島原発事故の対策費はどこから出ているのか。なぜ東電は経営破綻しないのか。
被災者はどのような状況にあるのか。補償はどうなっているのか。将来の見通しはどうか。
なぜ国は再稼働を急いでいるのか。
新しい安全基準とはどのようなものなのか。福島原発事故のような地震が発生しても原発は大丈夫なのか。
少し考えただけでも、いろいろな疑問が出てくる。科学的なものの見方考え方の出発は、自分で問いを立てて、それを自分なりに調べて検証することにある。
なにものをも怖れない批判的精神。それが学問を発展させてきた。学問は、批判的精神を中心になり立っている。
ぼくが立てた問いは、自然科学と社会科学にまたがっている。自然科学とともに社会科学の力が問われている。
自然科学は、自然の法則を明らかにする学問だが、人間の社会で生きている限り、自然科学も社会に深く左右される。
安倍さんの推進している原発輸出問題も自然科学と社会科学がクロスしている。ぼくがざっと考えてみた問を解き明かすだけでも、安倍さんの原発輸出問題の是非は見えてくる。
もちろん、学問の真理を探究するためには、自然や人間を大切にする理知の精神が必要になるが、学問を探究するためには、理知の精神に立って、徹底的にタブーを取り除かなければならない。このタブーの中には、日本政府や文部科学省の公式見解も含まれる。そういうものを突破して、学問の自由を追求しないと物事の真理には到達できない。
日本の場合、現在の社会体制に順応することと、学問の自由、学問の批判的精神は真正面からぶつかり合っている。文部科学省は、歴史学の上でも、政治学の上でも、道徳規範の問題でも、一方的な見解を子どもたちに押しつけている。その最たるものが、君が代と日の丸だ。真の学問は、この問題を批判的に取り扱うことを求める。真理探究にとって、タブーは最大の障壁になる。
学問の自由と批判的精神の溢れる学校を小学生の時代から作り上げてこそ、応用力をもった子どもを育成できる。そういう子どもたちが、若者になれば、当然のこととして、政治や社会のことに対し、真っ直ぐに疑問を抱き、真理を探究するようになる。そうなれば、本当の意味で国民主権が国民の中に根をはって、現在の変な政治体制は、終焉を迎える。新しい政権は、国民主権に根ざしたものになる。
政府や経済界は、社会体制に従順でありながら、自分の専門分野では批判的精神をもちタブーを怖れず立ち向かう人間を育成しようとしている。こういう問題の建て方は、根本的に誤っている。誤っているだけではなくて、政府が望んでいるような人間はなかなか誕生しない。
人間は自然科学と社会科学という2つの分野に学問の領域を広げてきた。この2つの分野の学問は、政治や経済、社会体制から逃れられない。だからこそ、自然科学でも社会科学でも、学問の自由と批判的精神という武器が必要になる。この2つの武器は、ときには体制に立ち向かう大きな力になる。
戦争は、自然科学と社会科学の両方の発展を著しく阻害する。真理探究という学問的精神は、戦争する国家にとっては忌々しいものになる。
子どもたちに学問の自由を。
子どもたちに批判的精神の保障を。
この2つの精神は、日本の未来を左右する。
哲学的内容ですが・・・さすがになぁ~チョットねぇ・・・笑。自然科学と社会科学は確かにありますが、科学と呼べるのは真理を追究することにあります。法学や政治、文学、教育の学問は真理追求という学問ではない。
全国学力テストの結果ですが、和歌山の教育がダメですねぇ~数値としてそれが現れている。努力した都道府県が順位を上げ、何もしない無策なところが落ちろ。まさに自然の摂理です。数値はそれを表します。
そこで教職員組合なんかが何かと理由つけて文句だけ言うんだけど、和歌山凋落の数値がまた一つ増えたということです。
「法学や政治、文学、教育の学問は真理追求という学問ではない。」というトリノさんの言説は、何をもって、そう言いきられるのでしょうか。個人としての人間が考えることは、たかが知れています。トリノさんの言説とおなじように、真理追求ではないといっている専門家はどなたですか。
これを明らかにしていただければ、トリノさんがよって立つところの哲学が見えてきます。
「法学や政治、文学、教育の学問は真理追求という学問ではない。」という立場に立っているのであれば、およそ議論は成り立ちません。東芝の論理も正しければ、トリノさんの論理も正しいということでしょう。つまり1=100、100=600、7=100などということが同時に存在するのであれば、真理追求ではないといえると思いますが。真理追求ではないということは、あなたが信じるから正しい、私が信じるから正しいという世界です。
社会科学や人文科学は、やはり真理を追求してきたと思います。学問としてなり立つということは、そういうことでしょう。自然にしても社会にしても、根底に横たわっているのは歴史ですよね。物質に運動があり、自然にも歴史があることが証明されています。自然に法則があるようによ人間の歴史も、発展してきました。多くの専門家は、トリノさんが否定しているところで真理を追求しています。思考実験という遊びは、真理追求を否定していることと結びついているのではないですか。
科学には基本的なスタンスがあります。自然科学が歩んだ道です。どんな美しい理論でも、事実でないものは切って捨ててきました。また科学者は自分の信念と違う結果が出た場合、その信念を捨ててその結果を認めることを繰り返して真理追究をしたのです。自分の理想や願望より、事実を認める。それが科学者のスタンスです。
で・・・法学や政治学・文学にそんなスタンスがあるの???人間が作った法律、それも国によりいろいろある。そういうものに真理があるの??また政治家が自分の間違いを認めたことがある???文学の真理とは?
教育学につては、ごく一部・・・早稲田大学の教育学部の先生がやっていた・・ビッグデータを用いて教育の方向性を示す・・・こうなると科学の領域だと思うけど・・・ごく一部の研究者です。
東芝さんのスタンスは政治家のスタンスです。別に悪いと言っているのではありません。政治家ですので当然だと思います。が・・・真理追求ではありません。自分の信念と違う結果を認めませんので・・・政治家です。
トリノさんは、社会科学がなんなのかをきちんと理解していないということですね。唯物論的な哲学が、基本に座れば、社会にも発展の法則があることが見えてきます。物理は、単純な物質をあつかいます。化学は化合物を扱うので、物理学よりも変化が複雑になります。生物学や医学になると専門家でも訳の分からない分野が多々あります。医学はまだまだ未熟な状態でしょう。
人間の社会を扱う場合、社会実験ができない状態にあり、個々人の意思が複雑に絡み合っているという動物界にはない状況における分析ということになります。
偶然が支配しているようにみえますが、大きな視野で見ると、人間の社会は、人間の人権を認め、互いを尊重する方向に向かって発展してきました。封建制の時代は、過去のものとなり、ほとんどの国が、民主主義を認める国、国民主権を実現した国になっています。奴隷制から封建制へ、そして資本主義へ。人類の歴史がこのような方向に発展してきたのは、単なる偶然ではありません。
人間の意識は、高度の発達した脳によって生み出されたものであり、物質の一つの働きです。人間の意識は、客観的な事物の反映なので、全ての人間は時代の制約を受けています。人間の意識が、社会に及ぼす影響もありますが、もっと大きく人間の生活を左右している問題があり、そのことを見極めることによって、社会科学は、科学になってきました。
トリノさん個人が、社会科学は、科学でないといってもそれは通用しないものだと思います。
科学をそんなに広義としてとらえると、宗教まで科学になります。客観的な調査にもとずく結果を考察するのが科学だと思います。また東芝さん、このトピックスの記述は哲学です。
学問の自由、学問の批判的精神が必要というのは、単なる経験による信念にすぎません。客観的な調査に基づく調査結果から導かれた論理ではありません。・・・だから哲学です。
一般的な科学に対する認識と東芝さんの認識はズレがあると思います。
大辞林を引いておきます。
「社会現象を実証的方法によって分析し,その客観的法則を明らかにしようとする学問の総称。研究対象により,経済学・政治学・法律学・社会学・歴史学などに分かれる。」
社会科学の基礎は経済学です。社会科学が、科学でないとするのであれば、それを唱えている専門家の名前を明らかにしてください。
僕のコメントで、社会科学が科学ではないと一言も書き込んでいません。客観的な調査にもとずく結果を考察するのが科学であって、大辞林のように、その客観的法則を明らかにしようとする学問です。
だから、法学や政治、文学、教育の学問は真理追求という学問ではないと書いただけです。また東芝さんのトピックスは、「社会現象を実証的方法によって分析し,その客観的法則を明らかにしよう」という内容ではないので科学ではないと書いているのです。またこういう内容を専門家に頼ることはないので、そんな専門家はいませんよ。だって、
客観的法則を明らかにしようとするれば科学です。でもSTAP細胞の論文のように捏造データ論文を書けば科学ではありません。
それと社会現象を実証的方法によって分析し,その客観的法則を明らかにしようとする学問に法学や政治、文学、教育が当てはまるような研究があるのなら教えて欲しい。
真理の意味は、客観的事実という意味です。そこには、価値判断は含まれません。真理追求というのは、徹底的な事実の追求です。
経済学上の論文で、徹底的な科学の書は、資本論ですね。
東芝さんが自分で書いているでしょう?社会科学の定義を「社会現象を実証的方法によって分析し,その客観的法則を明らかにしようとする学問の総称」とね。
事実を追求してどうするのよ・・・笑。事実を観測することによる真理の追究です。事実からその事実の法則を明らかにするのですよ。
資本論は、客観的法則を示しているのですか?それも実証的方法によって分析した結果です。
ダーウインが、ガラパゴス諸島を訪れて観察することによって進化論(生物が進化したものだとする法則)を提唱しました。
ニュートンがリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を思いついた・・・というのは単なる逸話で、本当は惑星の運動の観測事実から、あの偉大いな万有引力の方程式(法則)を導きました。
つまり事実の観測から、真理(法則)を明らかにしたのです。それが科学です。実証的方法によって分析なしに法則を語るのは宗教です。「キリストを信じなければ地獄に落ちる」・・・キリストの教えですが、実証的方法によって分析した結果(事実)がないので宗教です。
このトピックスを科学的に書くならば、全国学力テストの結果という事実から、秋田県と和歌山県の平均点の差は、明らかに両県の教育の方法に何らかの違いがあると推測されるので、教育方法の違いを詳細に調査する。そして、重要な点を絞り込み和歌山でも実証のため実施する。・・・もちろんその結果で真理がわかります。というように学力向上のための真理を探す。・・・これが科学的教育です。実証的方法で分析・・・客観的法則(学力向上の方法)を探す。
東芝さんのように学力テストを無視することから始まると、科学でも何でもない・・・単なる哲学にしか過ぎない。
それと、学力テストの結果に何も感じないのでしょうか?和歌山の政治家として・・・・中学3年で秋田と、これほど平均点の差が出ると将来の職種に相当な差が出ると推測されます。そんなトピックスかと思って読み始めたら・・・失望のような内容でした。
お、
実証的方法についてです。物理でも実験しやすいものと実験のしにくいものがあります。素粒子の物質の法則を把握するためには、スーパーカミオカンデとか、大規模な加速器が必要になりますよね。天文学でいえば、観測が真理(客観的法則)探究のいのちを握っています。ちなみに事実と真理には違いがありません。事実も審理も現象なしには存在しません。現象の中にある客観的事実を審理と呼んでいます。
地震の研究にしても、なかなか実験できない。観測方法にもかなりの工夫と努力が必要です。
自然科学も社会科学も、実験によって証明できる分野は、一部であって研究する対象によって、研究方法は、ものすごく違います。医学でいえば、実験したくても人間の命にかかわる問題がたえず横たわるので、倫理的に踏み込めない領域があり、検証する上でどうしても制約が生じます。
社会科学の場合、人間の活動や社会のあり方が研究対象として横たわっているので、実験装置を作って研究するということがなかなかできない分野になります。統計や理論的分析にもとづく研究、社会に政策的に働きかけて、それを検証していくなど、さまざまな手法がとられます。したがって、なかなか真理に到達しにくいという側面を持っています。だからといって、科学が成り立たないというのではありません。社会にも自然科学と同じように客観的な真理があり法則がある。これを探究することが社会科学の使命になるということです。
和歌山県の学力テストの結果ですが、今まで行われてきた、教育改革の内容を問う必要があります。
和歌山県は、この間、東京や広島のように教育改革がさかんに行われてきました。たとえば、教職員における合議制を排除して、校長に全権限を与え、職員会議は校長を補佐する機関に変えてしまいました。トップダウンを強めながら、教員に対しては、管理と統制を徹底的に強めたということです。有無を言わせない命令の体制を強いながら、調査物をものすごく増やしました。
ほとんど知られていませんが、たとえば小学校では、ドッチボール大会をおこなったとすると、評価点を数十項目作って、全て数値化して点数をつけて評価するようなことまでさせています。運動会になると、どういう作業が必要になるのでしょうか。全くくだらない点検と調査が延々と行われているのです。子どもたちの状況把握もできていない4月に年間の指導計画書を克明に作成させていることにも大きな問題があります。指導計画書をい作ることの意味はありますが、それは4月でない方がいいのです。しかし、県教育委員会は、4月早々全教職員に年間指導計画書を克明に作り上げることを求めています。
こういう計画は、どうしても子どもの実態が見えてくると事実と乖離した計画にならざるを得ません。
昔は、4月に年間目標とかを決めていましたが、指導計画を克明に作ることは求めませんでした。実際の指導は、生徒を把握する中で確立してくるものだからです。
中学校は、少子化の中で先生の人数が少なくなり、クラブ活動を維持するのが困難になっています。土日も休まずクラブをしているケースもあり、先生方は、ほとんどまともに休めない状態がずっと続いています。現場にたれ流してくるアンケートや調査関係の事務は、膨大な数にのぼり、それらは100数十点に及んでいます。国際比較でも膨大な事務量が日本の場合ものすごく多いという指摘がなされていますが、肝心の教材研究や生徒の具体的状況を把握することが、おろそかになるほど、深刻な実態にあります。
このような教育改革を批判的に検討しないで、学力テストの成績が悪かったからといって、教師の指導力アップのための研修を増やしても、果たしてどれだけの教師が新たな対応についていくことができるでしょうか。括弧付きの教育改革が、和歌山県の学寮低下を引きおこしてきた側面があることを教育委員会が認めないで、指導力強化を叫んでも、それは実態と全くかみ合わないものになるのではないでしょうか。
教育委員会による支配と統制の強い県の一つが和歌山県です。県教育委員会の方針に全教職員を従わせてきた中で、教師はものすごく疲れています。うつ病などの精神疾患も増えています。学問には、自由が必要です。教職員が自主的に教材研究に取り組み、教育的な関わりという面で創意と工夫が発揮させるような環境を作らないと、学力低下は止まらないと思います。
社会保障を破壊し、労働環境を破壊してきた問題も、教育に深刻な陰を落としています。貧困家庭が広がり、学力の低下傾向がクッキリ表れ、それは高校進学率にも格差となって現れ始めています。貧困問題は、貧困を抱えている家庭だけの問題ではありません。クラスの中に全く学力が身についていない子どもたちが増えてくると、クラスにさまざまな問題を引きおこしかねない状況が生まれます。30人足らずのクラスの中で、教室から飛び出す子どもが2人いる例もありました。こういう状況は、クラス全体にも大きな影響を与えます。
日本社会は、貧困問題と真剣に向きあって、貧困を克服しなければならないという課題を抱えるに至りました。和歌山県の県民所得は低い方です。この問題と正面から向きあって、すべての子どもに学力を身につけさせるようなサポートの仕組みを構築しないと、全体の学力向上もないと思います。
県教育委員会は、何もしてこなかったのではなく、さまざまな改革をおこなって、今の到達点を生み出してきたということです。そのことを分析しないまま、学力向上のためのタクトを振っても、空回りして、教師はまともな演奏さえできないと思うのです。
なんで教師の労働環境問題が出てくるのよ・・・・笑。テストの悪い原因を科学的アプローチをして調べるじゃないの?おまけに、「学問には、自由が必要です。教職員が自主的に教材研究に取り組み、教育的な関わりという面で創意と工夫が発揮させるような環境を作る」という実証的方法によって分析していない勝手な主張も入っている。
社会科学というのは科学するのであって、論理をたくみに組み立てることではありません。
それと・・・教師が疲れているなぁ~日教組の研修会で講演できそうな内容ですが・・・なぁ~
学力テストの結果、和歌山が低いというのをいかに改善するという論議をしたいんだけど、コメントする気も失せるような内容です。
生徒の学力を上げるには、教師を楽にしろでしょう?よくそんな意見が言えるというか、多分支持母体の教職員組合からの要望?ピントがずれ過ぎです。内容が科学でない上に、子供より支持母体の教師が大事なのか?と言いたい。
こんなこと言いたくないけど、和歌山の政治家として考え方が間違っている。
なんで学力を上げるために具体的な調査をしないの? 秋田は教師が疲れていないのか?静岡の学力が上がったのは、教師の疲れを取ったからか?
東芝さんの意見を実証するために調査する???・・・そんなわけないじゃん。
日本の教師が、組合に加入している、していないにかかわらず超過重労働になっているという記事は、新聞に載っています。国際比較がなされたのは記憶に新しい。過重労働で精神的に疲れている人々が、教材研究の時間さえ犠牲にしている現状では、質的な向上は難しいのは当たり前です。教師は、働く機械ではありません。子どもが抱えている困難に立ち向かえる環境を作る責任の大部分は教育委員会にあります。くだらない点検や調査によって膨大な事務を教師に押しつけて、自由な教材研究をする時間さえ奪い、子どもと関わる時間を奪っておいて、さらに「がんばれ」「質を向上させろ」というのは、問題の建て方が根本的に誤っています。教育委員会が統制を強めてきたのは、教育を支配するためです。
和歌山の教育改革が、教師の質を低下させている側面が強いということです。教育は、自主的自覚的な精神の下で発展します。管理と統制の強化の下で生まれるのは、質の低下です。
和歌山の先生方の労働組合の大部分は、日教組ではありません。全教です。全教は、何よりもまずより良い教育を目指すということを中心に据えています。金八先生のように、子どものためにかけずり回ってきた先生が多いという特徴をもってきました。労働者の権利ばかり主張しているような団体ではありません。
全教の宣伝を書かれてもコメントできません。和歌山のテスト成績が悪い点について科学的に調べるのではないのですか?
科学というのは何度も書きますが真理追求です。東芝さんは議論を何度もして論理体系を整えるのが科学と思っているように感じますが違います。真理はひとつしかありません。答えがいくつもあるのは科学ではありません。
テストの悪い原因を勝手に教育委員会の責任にして、教師を擁護しているだけです。政治論にしか過ぎません。
このブログで科学するという文字を何度も見ますが・・・・科学じゃないんだけど・・・政治ですよ。
何度問いかけても科学的コメントがないので・・・論議できない。せめて秋田と和歌山の違いを調べるぐらい書いて欲しかった。
学力を引き上げたいのであれば、それを阻害している要因を冷静に観ようということです。中学校の教師が一番忙しい。その結果、子どもの実態把握さえ困難になっている。このような状況で学力向上なんてなかなかできません。知事が説明している教員の指導力アップについては、問題の立て方が間違っているとは思いません。ただし、それを具体化するときの内容にもよります。教員の指導力アップの内容が、またマンガチックなものになったら、学力向上も実現しないでしょう。
でも、指導力アップをする前に、教員を縛り付けている事務と労働強化の要因を取り除かないと成果は上がりません。秋田県がどのような取り組みをしているのか、ぼくは調べていませんが、東京、広島、和歌山の教育改革は、教員の質の低下に拍車をかけました。
和歌山県の北部は、教職員による学習サークルや自主的な教育研究が盛んにおこなわれていた地域ですが、こういう取り組みは、かなり衰退しています。自由な時間が奪われていることが、最大の原因です。教職員の実態を無視して、学力向上のための分析を行っても、現時点ではほとんど意味がないと思います。
世界一の技術水準をもってきた日本の商品が、世界の競争の中で苦戦を強いられていますが、労働環境の悪化によって、頭脳の流出、多国籍企業化による産業の空洞化、これと深くリンクしている日本国内の生産現場による技術水準の低下。目先の利益追求の中で労働法制を破壊してきたツケが吹き出しています。利潤追求が競争の中で激化し、結局は自分たちの手で生産基盤を破壊してきたこの20年間は、先進国の中で唯一、GDPの伸びない国を作りました。
教育界では、統制的な教育によって、教師への支配を強めるために事務仕事を膨大に増やし、教師から自由な時間を奪いました。その上で競争を煽ることによって、国内における学力低下が引きおこされたということです。
発達学の観点からは、小学生に直接体験が少ないことが、柔軟な思考を育てない要因だという指摘がくり返しおこなわれています。机の上だけの勉強に子どもたちを縛り付け、進学のための勉強を敷いてきた結果、過半数を超える子どもたちに学力が身についていない問題が現れています。
線香のような精神力の細い、幅の無い人間を育てても、社会に出ればポキンと折れてしまうのに、教育における子どもたちの競争は、どうしてもこのような傾向に子どもたちを押し込んでいます。自分とこの娘を見ていても、このことを感じます。クラブと勉強と塾と。そういう世界史か知らない子どもたち。これでまともな人間が育つのか?と思いつつも、子どもはぼくたちの時代以上に勉強に駆り立てられています。
異常な時代だと思います。
その・・・・東芝さんの物事に対する考え方と僕の考え方は全く違う。
僕は事実がある真理を探ろうと考える。対して東芝さんは自分の真理がすでに存在していて、その真理に合う事実だけを追求する。
ぼくが真理を追究、東芝さんは事実を追及。だから話が合わない。
何度も何度も書くけど、学力テストで和歌山が非常に悪いので、和歌山の教育関係者はどう対処するべきか?と聞いているのであって、その答えを聞いているのではありません。こういう問題は教育委員会・教師そして行政が協力して取り組むべき問題であり、その指針なるものを聞きたいのです。原因なんかまだ分かるわけないじゃないですか・・・なんで勝手な答えに結びつけて批判ばかりするのでしょうか?
僕も東芝さんも教育の専門家じゃない。だから・・・大まかな指針なる意見を書いて欲しいのよ。日本の教育を語るのではありません。和歌山の教育です。
正直に書くと、ここのトピックスで一番気にいらなかったのが、
>新しい安全基準とはどのようなものなのか。福島原発事故のような地震が発生しても原発は大丈夫なのか。
少し考えただけでも、いろいろな疑問が出てくる。科学的なものの見方考え方の出発は、自分で問いを立てて、それを自分なりに調べて検証することにある。
これがなぁ~一番引っかかったです。学力テストを科学的に分析しようとしない態度と、一方で科学的に・・・という文章がなぁ~・・・すごっく違和感を覚えてのです。
>科学的なものの見方考え方の出発は、自分で問いを立てて、それを自分なりに調べて検証することにある。
なぁ~・・・イマイチですねぇ。科学に対する認識がズレています。当然、そのあとの文章はなんら根拠のない主張です。
真理を追究して欲しいのですが・・・・心理を追究しているような気がします。
>少し考えただけでも、いろいろな疑問が出てくる。科学的なものの見方考え方の出発は、自分で問いを立てて、それを自分なりに調べて検証することにある。
トリノさんが、この文章に引っかかった理由の一つは、科学は、いかにして主観を捨象して物事に対応するかにあるからではありませんか。
科学は、部分学です。主観を捨象することが、物事を客観的にとらえる出発だという傾向があります。
お医者さんが、身内の難しい手術を避けるのは、感情が入ると冷静な判断ができなくなるからです。それはつまり、科学的な態度を貫けない可能性が強いからですよね。
哲学は、物事を全体的にとらえ、それを明らかにするところで成り立っています。科学が捨象した主観を含めて、世界全体をとらえるところに哲学という学問があります。ぼくが書いたのは、人間は、脳という主観を通じてしか物事を捉えられない、ということを前提に、問いを立て、そのことを調べるところから科学的な検証が始まるということでした。
科学者が、客観的に物事をとらえる努力をしても、俯瞰して物事をとらえると、客観的であろうとする科学者も、自分の脳を通じてしか、物事を捉えられない、したがって主観を絶対的に排除できないという事実に直面します。
真理の追究が心理の追究にしか見えない理由は、ここにあるのではないですか。
現在哲学は、科学の成果の上に成り立つものです。科学が進歩すれば、哲学はその形態をかえるのです。科学の成果を踏まえて、世界全体を捉えようとするのが哲学ですから、枝葉に入り込んで行き、人間とは何か、社会とは何かを見失いがちになる科学に方向性を与えるのが哲学の役割だと思います。
専門家の専門分野は限られています。専門家が他の分野に対し主張するときに、多くの誤りを犯すのは、専門外に対して、科学的な態度を貫けないからでもあるし、自分の専門性に依拠して類推したりするからです。全ての分野に対し、専門家ではあることは不可能です。したがって、どんな科学者も、ものの見方、考え方においては、何らかの哲学を身につけているということです。意識する、しないにかかわらず。
トリノさんは、科学というものを自分の詳しい分野から類推しているように感じます。部分学である科学は、分野が違えば、研究方法はものすごく大きく変わります。扱う対象によっては、実験が不可能な分野はたくさんあります。実験ができないからといって、科学が成り立たないというのは、極めてせまい見方になります。
天文学における理論物理学の分野は、物理学の法則が綺麗な数式で表されるという演繹的な結論に依拠して、数式を解き明かすことによって、宇宙や物質の法則を明らかにしようとしています。たとえば、数式が綺麗に解ければ、相対性理論と量子力学の不一致点を統一して解決できるところから、超ひも理論が提唱されています。理論が先行して、観測が後になるということです。理論的研究が先行するのは、実験が不可能に近いからです。観測技術の進歩と提唱された理論に導かれて、観測することによって、それを発見できたら、理論が実証できたことになります。
自然科学の分野で実験を基本に科学を見てきた人にとって、社会科学の方法が科学的なのかどうか、確信をもてないのは、むりのないことだと思います。社会科学の分野は、社会科学の方法に従って学ぶ必要があります。人類の科学的到達点は低いかも知れませんが、しかし、先人達が行ってきた研究は踏まえるべき価値があるものです。そこには多くの相対的な真理が含まれています。社会を語るのであれば、社会科学を学ぶ必要があります。
話を社会問題に移します。
現在社会と地球規模の世界を論じるときに、国連憲章の考え方を研究するのは、意味のあることだと思います。第2次世界大戦以後の世界は、国連の成立とともにありました。日独伊3国軍事同盟が引きおこした戦争を終結させたところから戦後が始まりました。現在の国際社会は、第2次世界大戦の総括の上に立っており、その総括の上に国連が存在しているということです。ただし、国連も戦勝国が常任理事国だという勝者の論理という側面を持っています。そこにも歴史の到達点が反映していますが、この枠組みで世界の動きを捉えられない傾向が強まっています。そこにも歴史の流れがあります。
トリノさんには、日本の戦争は、先行して植民地化していたヨーロッパ諸国と本質的には同じだという見方がありそうですね。日本はヨーロッパと同じことをしただけなのに、敗戦国になったので一方的に責められていると。
この見方には、アジアの視点が欠落しています。日本が大規模な侵略をまず行ったのは、アジア諸国に対してです。最大の被害を被ったのは中国です。封建制社会であった中国は、日本の仕掛けた戦争によって崩壊し、中国国内は、国民党と中国共産党に分裂して争うような状況に陥り、国という形が壊れていました。
中国に対する戦争が、国家に対する戦争ではなかったという側面だけを捉えて、日本は中国と戦争したのではない、という見方をする勢力がありますが、それは、ものすごく機械的で表面的な見方です。ときの政治勢力が崩壊したら、その時点から国家間の戦争ではなくなります。それは当たり前のことです。そうなると相手は、侵略してきた他国に対し、抵抗する自衛軍だったり政府の残党だったりします。これが戦争でないとすれば、ベトナム戦争も戦争でない側面の方が多くなってしまうでしょう。
日本は、明治時代から朝鮮と中国に侵略の足場をきずき、満州事変、盧溝橋事変などをへて中国と全面戦争状態になり、やがて米英と戦争状態になって第2次世界大戦へと突入しました。ドイツがヨーロッパで電撃的勝利をおさめたので、東南アジアに侵略を拡大し、ヨーロッパ諸国の植民地を奪いにかかりました。
日本とドイツとイタリアの引きおこした侵略戦争を終結させ、戦後が始まりました。戦後の世界はこの上に成り立っており、一定の価値観を共有しているということです。
このことに異論をお持ちなようですが、大切なのは、この世界の多くの国々が依拠しているこの立場を、ますは真摯に学ぶべきだということです。異論を捨てよとは思いませんが、深く学んだ上でなおかつ、日本の引きおこした戦争が正しかったのかどうか、自己検証してはどうか、ということです。
東大の歴史学者の加藤陽子さんは、『それでも、日本人は戦争を選んだ』という本で、高校生を相手に行った特別講義の内容を紹介しています。本では、5,000万人以上の人間の命が失われた第2次世界大戦の結果として生まれた日本国憲法の重みに触れて、日本国憲法の規定は、国連憲章の発展だということを書かれていました。そういうことをまずは学び、検証していただきたいと思います。この本は、第9回小林秀雄賞を受賞しています。
ネット右翼の方々ともやり取りしたことがありますが、ぼくがやり取りした人たちは、歴史的な事実をほとんど理解しないまま、韓国や中国を攻撃していました。自分の信じることだけ、信じて悪罵を投げかけています。
日本のヘイトスピーチが、国連で問題になり、その根源には一部政治家の発言があると指摘され、差別撤廃条約を批准した日本国に対し、是正勧告が出されました。こういうことは異例のことだと思います。日本のマスコミは、ほとんどこれらの問題を伝えないので、知らない国民が多いと思いますが、日本は、安倍政権の下で国際的にどんどん孤立しています。
トリノさんは、ネット右翼のような方ではないと確信しています。しかし、論調は、歴史修正主義的な方々と同じ傾向を示されています。それは、トリノさんをしてどなたかの本や論文によって影響を受けた結果でしょう。ぼくたちの世代は、戦争を知らない世代なので、第2次世界大戦についても、学ばなければ認識できない世代です。あの戦争が日本の侵略戦争であったことは、中学校、高校を通じて学んだはずです。それが、何らかの形でひっくり返ったということですよね。
ぼくは、自分のオリジナリティーな考え方であったとしても、影響を受けた本や考え方については、それらの方々から学んだことを大事にしています。自分の考え方の基礎になっているものの出自については、どう影響を受けたのかも含め、明らかにしたいと思っています。人間、自分自身の考え方は、たかが知れていますから。この間、トリノさんにその論の出自を何度か聞いたのは、こういう考え方にもとづいてでした。
学力テストの問題については、学力テストの結果を分析する前に、教育委員会は、自分の胸に手を当てて、自分たちのしてきた教育改革を反省すべきだということです。現在の低学力だった結果は、この教育改革の弊害だったという側面が濃いということです。教師の指導力低下は、一面の真理を突いているとは思いますが、教師の置かれている現状を不問に伏して、さらに努力を求めるのは間違っているということです。
学力論争をさかんにおこなった方々から指摘されたのは、「そもそも学力とは何か」という定義づけがあいまいなまま、学力論争が行われたと指摘されています。学力テストによって明らかにされる学力とは一体何なのか、今回もまたそういう根本を見つめないで、学力テストの成績アップに血眼になっています。
きわめておかしなことが積み重なっています。そういう状況なので、分析する気が起こらないし、学力テストの結果の悪さを見つめる気持ちが、まだ薄いということです。
ただ、全く興味がないわけではありません。秋田の取り組みは本にもなっていますから、読むかも知れません。
長文すぎます。その上・・・哲学的要素の入った内容でその内容も広すぎ・・・
それと僕はネット右翼ではないですよ。が・・・共産党の思想とは、相反する思想です。
戦争は愚かな行為です。人の殺し合いをやるんだから愚かの極致です。でも日本共産党の思想には賛同できません。共産党は愚かな思想です。誰かが東芝さんに宗教だと言ったように、その思想を信じてしまうよどうしようもないのです。僕がなんと書こうが、その思想がある以上お互いに妥協できないだけです。
僕の戦争に関する教育に疑問を抱いているようなので、特別に・・・・僕は日本の侵略戦争と教育を受けた記憶はありません。戦争に対する悲惨さは教えられましたが、敗れたとはいえ日本人である以上、日本の味方です。
僕が高校時代、わが母校(県立耐久高校)の創立130周年に当たり、卒業生で傑出人の記念講演を、たしか出席番号の若い数人が選らばれ、聞いた記憶があります。当時は記念講演なんか聞きたくなかったんだけど、出ろといわれるがままでました。その時講演をしたのが、法眼 晋作でした。柳田邦男さんの小説にも登場する元外務省事務次官で、オイルショックの時に陣頭指揮を取った人です。内容はほとんど忘れたのですが・・印象に残る言葉があって、「核兵器というものは不要で、使えない兵器です。・・・で・・憲法9条については、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。という箇所は削除すべきです。」と明言したのを覚えています。
今になって、その言葉の意味がよく理解できるような気がします。先輩から後輩に向けたメッセージです。
それと僕の祖父は中国で戦死しました。が・・・祖母も父親も苦労したにも関わらず反共です。当然、僕も反共。
もちろん右翼ではありませんが・・・笑。祖母なんか僕が小さいときに日本軍は昔強かったと、何度も聞かされました。戦争に負けたことは認める。が・・・日本人である以上、その過ちを犯した日本人を責めることはありません。その犠牲のもとに現在の日本があるという考えです。
東芝さんのように、過去の日本人批判までしようとは思いません。同じ歴史を歩んでいる民族ですので・・
ぼくの戦争に対する根底には、母の話があると思います。
母は、20歳の時にすでに小学校の教壇に立っていました。すでに許嫁がいました。相手は、高野口町の駅前に住んでいた方でした。出征が決まったとき、母が来るのが遅れ、行き違いになってしまったので、和歌山駅まで追いかけることになりました。ホームに走り出した母の目の前で列車の扉が閉まり、扉の内側に立っていた許嫁と母は、扉越しにお互いに顔を見たのが最後となりました。
8月6日のことでしたか、母の許嫁は、南方におもむく船が沈められて戦死しました。
土曜日だったと思いますが、日直で学校に残っていたとき、同級生の男の子が学校に来たことがあったようです。「中村さん、出征が決まった。もう一度学校を見たくて」
この男の子も、戦死したようです。
母は、都会から学童疎開で来ていた子どもたちもたくさん教えました。
これらが、母から聞いた戦争の時代の話です。母は、戦後「教え子を再び戦場に送るな」という教職員組合の方針に共感して、戦後を生きました。
母は、教師として、教科書に墨で線を引かされた世代です。戦争の時代を若者として生き抜いた1人として、いろいろな思いを胸に抱いた人でした。
ぼくは、そういうものを受け継いでいるようです。