ヘーゲルの「相互承認」の奥深さ
久留米駅を朝の9時37分発の新大阪行き新幹線に乗って戻ってきた。新幹線の中で『文章のみがき方』(辰濃和男著)と100分de名著『ヘーゲル 精神現象学』(斎藤公平著)を読んだ。『精神現象学』が面白かった。
ぼくなりの読み方でいえば、「肯定的理解」と「固定した境界線はない。対立物の相互依存、対立物の相互転化」という考え方を深めることができた。現存するものを頭ごなしに否定するのではなく、現存するものには存在するだけの肯定的な側面があるということを深く理解すること、対立物は互いに関連していること、依存し合っていること、この理解が大事だということだった。
人間の社会にはさまざまな対立があり、対立し合う一つの出来事に対する相反する意見、一つの物事に対する相反する認識は、コンフリクトを起こしている。ヘーゲルは、現実の社会の中にある意見の対立、コンフリクトは完全にはなくならないが、自分の意見への自己批判を通じて、相手の赦しを得ることの大切さを説き、それは相互承認だと説く。これを繰り返し行うことによって、社会が進んで行く。この相互承認への到達をヘーゲルは「絶対知」と呼んだ。
ヘーゲルの「絶対知」は、絶対的な知という意味ではない。人間は、「教養」「啓蒙」「良心」という過程を経て認識を発展させ、コンフリクトはあるものの相互承認に至ることによって「開かれた始まり」というところに到達する。この状態をヘーゲルは「絶対知」と呼んだということだ。
これをぼくが今まで学んできた考え方で書くと、有限な人間の知には、どんな深い認識であっても、どんなに研究した科学的真理であっても、得た認識は、完全無欠の「絶対的な知」ではないということ。しかしその認識には絶対的な知につながる知の粒が含まれており、それは無限に続く過程だということ。絶対的な真理の粒を含む認識は、相互承認によって開かれていくということになる。
どのような立場の意見も徹底的に否定しない(たとえばそれが統一協会の教えであってもだ──もちろん統一協会の人と話を尽くしても、相手が洗脳状態にもあるので相互承認には至らないかも知れないが)。お互いのことを理解し合いながら、話し合い、共通点を見いだして前進するためには、自己の認識に対する批判と相手からの赦し(この関係は相手からも同じことが言える)が必要であるということだ。
階級的な利害対立という関係にあっても、この相互承認が関係の改善にとって必要になる。それは長いたたかいになるかも知れないが、たとえば裁判闘争を通じて企業と住民である原告、国と原告が和解するときは、何らかの相互承認という状況にある。
議員が自治体の当局に対し要求を実現するときも、必ず何らかの相互承認という状況にある。完全な合意というものはなかなかないかも知れない。しかし、一歩でも半歩でも要求が実現するときは、何らかの相互承認が存在するということだろう。
どのような人間であっても徹底的には否定しない。それは、たとえば日本共産党員でありながらも、日本共産党に対して攻撃を加えたことによって、除名(党の一員でなくなること)になっても、その人物のすべてを否定しないことにつながる。除名というのは、日本共産党の一員でなくなっただけのことであり、人間性の否定にはつながらないということ(──たとえ話としてはあまりよくないですね)である。しかし、こういうことを明らかにすることも大事だと思う。
日本共産党の活動をありのままに見てもらえれば、支持や共感が得られることは数多く存在すると思われる。もし共産党員が共感してもらえないとすれば、自分の正しさに対する幅の狭さに起因することが多いのではないだろうか。日本共産党の政策や理念の正しさを伝えるためには、共産党以外の考え方を十分に知って、それらのことについても深く捉え、深い認識をもって対話できることになることだろう。相手との間で認識がつながるような架け橋的なものがなければ信頼は培えない。ここでも相互承認という関係が重要になる。
相手の言い分を受け入れながらも、改善策を示すことが相手の考えを柔軟にさせることにもつながる。具体的で積極的な提案や、自治体当局の考え方に沿う側面をもった具体的提案を行えば、その先に改善案が見えてくる。ぼくは、ヘーゲルのいう「相互承認」は、奥が深いと考えた。相手の言い分を理解しようとする態度や考え方が話を一歩前に進める力になることは忘れたくない。
ぼくは、ヘーゲルについて深く学んだことはない(いずれにしても原書[ドイツ語]で学ぶ力はないので、日本語による翻訳になる。研究者曰く、それは本物の研究にはならないらしい──しかし、ヘーゲルならそれもそれでいいではないかとなるだろう)。
斎藤公平さんの『精神現象学』が面白かったので、ちくま学芸文庫の新訳『精神現象学』上下(熊野純彦訳)を買うことにした。原書の翻訳なので斎藤公平さんの本よりも難解だろうが、100分de名著のテレビ番組をオンデマンドで見ながら挑戦してみたいと思う。本を読めば、今日ここに書いたぼくの解釈が正しいかどうか。これも見極めることができるだろう。
俺もAmazonで注文してみました。届くのが楽しみです。
100分de名著『ヘーゲル 精神現象学』を読了した。
この本の中心を成す「相互承認」を理解した。それにしても不思議だなと思うのは、「思想なき論破の態度」の中で、何の疑いも持たずに「絶対にこれが正しい!」と論破する事が目的化した人々に欠けているのが『協働』の態度だ、という所は驚いた。何故ならしんぶん赤旗によく出てくる言葉がこの『協働』という言葉だからだ。俺は、日本共産党の支持者で良かったと、この本を読んでしみじみ感じた。
マルクスは、資本論の中で「現存するものの肯定的理解のうちに、同時にその否定、その必然的没落の理解を含み」という研究方法に言及している。
マルクスは、生涯をかけて資本主義の肯定的理解のために心血を注いだ人だった。肯定的理解から物事の研究をすすめ、「根本的にことに通ずる」(エンゲルスの言葉)努力を行うことが、まず何よりも大切だというのが、マルクスとエンゲルスの共通の研究方法だった。
「現存するものの肯定的理解」という言葉には、現存する、つまり存在しているすべてのものについては、肯定的に理解しうるだけの存在意義があるという意味が含まれている。統一協会にしてもそう、オウム真理教にしてもそう。多くの人が支持して心酔している教義には、たとえそれが洗脳であったとしても、人々を心酔させる力があり、社会のなかで組織として成り立っているので、そこには社会的に存在しうる何らかの条件があるということ。それらの組織には、社会の何らかの要因の反映があり、組織はそこに依拠して成り立っており、組織には何らかの存在理由があるということを意味する。
それを組織の存在が気に入らないからと言って否定するのは、弁証法的なものの見方に反するし、組織を頭ごなしに否定することにつながる。
齋藤さんが書いた『ヘーゲル 精神現象学』の本を真似して書くと、組織を全否定するような見方は、自分自身の考え方を、盲目的なものにするということ、相手を否定することによって、自分自身を動物界に落としてしまうことを意味する、ということだと思います。
分かります。例のあの党首ですね。
言いたくないけど、バカですね。
バカ、で思い出したが、バカの専売特許の鳥野君は元気にしておるかなあ。
例のあの党首とは、馬の糞の事です。