「マイナス面もちゃんと描け」

雑感

『内側から見たテレビ』(水島宏明著)という本を自炊してiPhoneで読んでいる。なかなか面白い。テキストを検索できるようになったので、面白かったか所をコピーしてみた。以下、引用してみる。
 

 どんなに素晴らしい主人公でも葛藤があり、人間的にダメなところや弱いところもある。「プラス面ばかり」で描いてしまうと、結果的に嘘っぽい、表面的な作品になってしまう。その人物の「マイナス」部分、欠点や悩み、苦しみもちゃんと描いてこそ、初めて人物の輪郭が描ける。だから、「マイナス面もちゃんと描け。たとえ見当たらなくても、探し出して描け。そうでないと結果的にプラスの面も伝わらない」、先輩たちはそう教えてくれた。
 「マイナス面」をきちんと伝えられないと、結果的にその人物の魅力や功績が視聴者に伝わらず、取材に応じてくれた相手にも失礼な結果になってしまう。
 これは、制作者が取材対象を盲信し、崇めてしまうスタンスになると、ロクな作品にならない、というニュースやドキュメンタリーの制作者たちの経験則だ。新興宗教の教祖様のように取材相手を持ち上げたら作品は失敗する。
 取材経験の少ない、比較的若い制作者は一般的に、相手を盲信し、崇めるような作品づくりをしてしまいがちだ。私も若い頃、出会って感銘を受けた障害者運動の活動家や無農薬で米作りをする農家、子どもとのふれあいに熱心な教師など、惚れ込んだ人物のドキュメントを制作したことがある。
 ところが不思議なことに自分が相手に感銘を受けて「素晴らしい人物」だと惚れ込めば惚れ込むほど、駄作になってしまった。編集でも相手の台詞の「素敵なところ」「カッコいいところ」ばかり集めてつないでしまう。人物を崇めてしまって、視野の広がりを持たない単眼的なものになってしまうのだ。そうした作品はしかし、相手に惚れ込んでしまっている(自分のような)信者から見れば満足できても、その相手に必ずしも惚れ込んでいない人から見れば「気持ち悪い」「押しつけがましい」ものとしてしか映らない。

民放でドキュメンタリーを手がけてきた水島さんは、自戒を込めて事実の描き方を問いかけている。先輩たちが教えてくれた「マイナス面もちゃんと描け。たとえ見当たらなくても、探し出して描け。そうでないと結果的にプラスの面も伝わらない」という言葉は、ものすごく大切なことを意味していると思う。それは、日本共産党の活動にも言えることだし、議員活動にも、仕事としても言えることだと思う。
事実には、様々な側面がある。人間の存在自体、人間を構成している物質自体が、相反する二つの側面によって成り立っているので、物質それ自体、存在それ自体に矛盾した傾向を持っている。それが、事実を把握するときにも現れるということだろう。真理(=事実)に近づけばちかづくほど「綺麗にまとまっている」ということはない。あり得ない。
人間の感情というものは、とらえどころがないので、そのときにどうしてそうなったのかを追及していくと、どうしても不可解なものに行き着く。感情に支えられている人間の行為というものも、当然揺らぎを持っている。それを勝手に解釈しないでありのままに捉えることが大事になる。合理的に解釈したり、望んでいる方向によってまとめ上げることは誤りであることを肝に銘じる必要がある。

事実を追及しているのに、頭の中で物事を同時に判断していくので、勝手にイメージや絵をこしらえて、間を補ってしまうことがある。この傾向を追及すると、テレビではありもしなかった映像を作成したり、ナレーションで「穴」を埋めようとしたりする。そこにウソが忍び込んでいく。
水島さんは、最近のテレビが、過剰なまでにこういう傾向に支配されていると書いている。

 まっとうな作り手ならば、派手な字幕や音楽、盛り上げ調のナレーション、ありふれた表現などは、取材させてもらった相手に失礼だという感覚が働く。誠実な制作者ほど、ナレーションの言葉や音楽、字幕などの細部にも気を使い、表現を吟味し、作品の品格を最大限保とうとする。いかにも、というようなありがちな表現、言い方を変えるならば「品がない」「安っぽい」表現や決まり文旬は避けようとする。バラエティでさえもそうだ。
 できるだけ心の底で感じたニュアンスや作品にふさわしい本質的な表現を導き出そうとするものだ。どこかで聞いたような使い古された言い回しをして平気な神経の制作者が作る作品はやはりずさんなものが多い。だから、プロの作り手ならば一部を見ただけでも、だいたいの中身は分かる。

メディアリテラシーを身につけるためにも、「話を盛っている」傾向を敏感に見抜く必要がある。

こんなことを書いていると次のようなことも浮かんできた。
日本共産党以外の政党は、テレビの前でもかなりみっともないところを見せている。出てきてしまうのだからしかたがない。しかし、日本共産党は党の過ちや負の部分に対して、党を守るために一番厳格な対応をしている。誤りを犯したら徹底的に反省して党として責任を取るという形をとっている。それは正しいことでもあるが、人間くささに欠ける。人間はみんな失敗するが、失敗しても再生する力を持っている。辞任すべき言動をはいていても大臣を辞任しないのはものすごく見苦しいが、人間の醜さを露わにして人間くさいともいえる。
稲田朋美さんのように、南スーダンで活動している自衛隊員の命を危険に晒しているのに、戦闘を衝突だと偽って自己保身と自己弁護に救急としているのは、本当にみっともないし、辞めていただきたいと心底思う。ものには限度があるが、人間の弱さや弱点が現れてもいいんだということを含めて、フランクにならないと、日本共産党の硬さは消えないのかも知れない。

日本共産党の哲学の根底には弁証法があり、この弁証法は、1つのものの中に対立する2つの傾向を、物事の成り立ちとして積極的に認めている。1つのものの中に相反する2つの傾向があるということには、人間の感情や性格も入ってる。人間は「良いことをしながら悪いことをする」ということをテーマにして描いた作家は池波正太郎さんだった。この人の「仕掛け人藤枝梅安」は、人の命を針治療で救いながら、同時にその針で人の命を殺め、金を手に入れるという裏家業を営んでいる人物、梅安をリアルに描いた。「良いことをしながら悪いことをする」ということを、池波さんは藤枝梅安という人物を生み出して追求して見せた。池波さんが描いた物語は、極端なように見えて、人間の本質をえぐっていたと思われる。人の命を救いながら人を殺めているというような極端なことではなくても、相反する感情や性格が同時に存在するというのは、すべての人にある傾向だろう。それがどう現れるのかというところに人間の行為がある。そのことを当然の事として認めて人間を見るのかどうか。
すべて品行方正で正しいことしかしない人間なんて存在しない。自己保身もあれば、人からよく見られたいという思いもあれば、自分を誤魔化して、相手にウソをつくこともある。競争教育の中で培われた感情である自分の方が優秀、相手の方が優秀というような気持ちはなかなか消えない。能力があるとかないとかで人を見る傾向は、ものすごく広く存在している。それが自分の感情の中にもあって、いろいろな態度を生み出す。
自分の内面を覗くといろいろな思いが錯綜していて葛藤がある。自分の中にも相反する傾向があることを知って生きているのと生きていないのとの違いはものすごく大きいと思っている。大切なのは相反する傾向とどう付き合っていくのかだろう。人間というものをリアルに把握することが、問われているんだということを、胸の奥に持っていることが大切だと考える。
弁証法的にものを見る日本共産党が、日本共産党員を見るときに、人間にはいろいろな傾向があり、相対立する2つの傾向の中で人間は生きているということを余り見ないで日本共産党員はこうあるべきだというのは、正しい人間の見方ではない。人間が犯す誤りに対して、もう少し幅をもった見方が必要なのではないか、ということも大切だと思っている。


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雑感

Posted by 東芝 弘明