1970年代の中学生たち
同窓会で話を聞いていると1970年代の中学生たち(自分たちのこと)が、今以上に困難な生活を強いられていたような気がしてきた。みんなその当時、同級生のことは幸せそうに見えていたが、実は多くの家庭的な問題を抱えており、それが中学生の生活に影を落としていたようだ。「小学校3年生から新聞配達をしてた」とか、「俺は小学校4年からしてた」とか、「生活保護やった」とか、さまざまな状況にあって、その中に子どもの生活があったようだ。
それで「苦労したんか」というと、「そんなんじゃない」という話だった。それを上回るだけのエネルギーと楽しさがあった。
しかし、先生方は、子どもたちのさまざまな状況を知っていて、そういう子どもたちのことは忘れていなかったらしい。もちろん、全ての子どもをまんべんなく見ていたのではなくて、自分が担任した子どものことはよく覚えているということだった。
今の時代、どれほど子どもたちの生活のまるごとを先生たちは知っているのか。「今も同じだよ」という答えが返ってくるのかどうか。教師は、高校を卒業して大学で教職課程で学び、社会人になって学校に戻ってくる。文化という点では、教職員は、学校のことしか知らないで大人になる。しかし、教職員は、子どもたちの生活をまるごと捉える努力の中で、社会の矛盾やひずみ、子どもの貧困や困難を学ぶ。そのことを通じて、社会全体の問題に深く関わり始める。教員が教員として成長するためには、子どもをまるごと捉える努力が必要になる。子どもの姿を通じて社会を知る。
こういう考え方が若い教職員に受け継がれているかどうか。
昨日の同窓会は、そんなことも考えさせられた。ぼくが抱えていた問題は、同じようにみんなを取り巻いていた。そんな風にも感じた。
俺の親父は俺が中学生の時、すでにアル中であり、家の中は悲惨な状況でした。
俺は深夜、泥酔して帰ってきた親父に起こされ殴る蹴るの暴行を日常的に受けていて、俺が46歳の時に死んだ時は嬉しかったです。何故なら、俺が成人した後も金をせびられ、そのせびった金で呑み屋で酒を呑むという事をしていたからです。
中学生の時俺も「新聞配達」をしていました。父親が家に金を入れないので家は困窮を究めていたからです。2ブロック新聞配達をしていました。その金で本を買い、立ち読みをしたり、買い食いしたりの毎日でした。
ところが、父親は反面教師とはならず、俺も酒飲みになりました。
そんな父親を今はなんだか懐かしく思う事があります。此の職業軍人であった父親の一生を小説で表現してみようと思っております。父親も此の太平洋戦争の被害者ではなかったかと思えるのです。
我が家の晩飯はご飯に塩をかけて喰うという日が多かったです。昼飯は学校で給食が出るので栄養面ではさほど問題はなかったのですが、父親は不在で日曜日が困りました。俺は新聞配達を2ブロックしていたので収入は5万円程あり、(折り込み作業も2ブロックしていました)その金で鉄板焼きを喰ったり、本を買ったり、兄弟に飯を喰わせたりしていたのです。母親は常に不在で、新興宗教に狂っており、東洋信託銀行でアルバイトして、その金を教会に貢いでおりました。俺が父親に暴行されておっても、隣の部屋でいびきをかいて、ぐ~すか寝ておりました。
そんな日常でしたが、学校が終わると、俺は本屋に通い、県立図書館で不良仲間と出逢い、青春を謳歌出来た事は良かったです。救いでした。俺の人生は此の県立図書館が無ければ多分自殺していたと思います。不良仲間というものはいいものです。勉強を教えて貰い、ギターを習い、喧嘩を教えてもらいました。喧嘩の要諦は、相手の懐に左手で顔をガードしながら飛び込み、相手の鼻を思い切り殴れば、大抵、1っ発で勝負はつくのだと教わりました。
我が家は時折、父親の部下であった軍人が夜、大挙して押し寄せ、朝まで呑み明かす事がありました。母親はその相手をさせられ、(しないと、殴られました)部下が持って来た魚を料理させられ、酒のお酌をして回り、俺は叩き起こされ(新聞配達で朝が早いのに)余興で歌を歌わされ、裸にされ踊りをさせられました。
WAOさんの子ども時代、すごいですね。僕の父は召集兵でしたが、斥候だったので膨大な数の中国人を殺した経験をもっていました。戦後も戦争の中でしか生きられなかったのだと思います。ぼくの父は、ぼくが小学校1年のときに亡くなったので、それ以後の我が家は平和でした。
生きていたら、人生の影はすごく濃くなったと思います。中学と高校時代の6年間のうち、真ん中の4年間、母が入院していたので、椎名誠の青春時代のような生活をしていました。
社会とはかけ離れていましたが、毎日が友だちとのキャンプみたいなものでした。高校時代は勉強なんてしてなかったですね。
WAOさんの10代の頃のことを読んでいると、文学に想いを寄せていったプロセスが見えるようです。選択し得ない家庭環境の中、得られなかったことと、得たことが文学へのエネルギーになっているように思います。
お父さんの話、小説で読みたいですね。ぼくの父の体験ともとも重なるような気がします。
1970年の大阪万博は、文明の到達点を見せましたが、ハリボテだったし、高度成長によって引き起こされた公害問題、あさま山荘事件、金兌換成度の停止、ロッキード事件、こういう時代背景をもった70年代は、明らかに80年代とは違うエネルギーをもっていました。戦争の爪痕と貧しさがまだ渦を巻いていた時代だと思います。
僕の周りもみんな、語り尽くせないほどさまざまな問題を抱えていました。ぼくの家には大人がいなかったので、10代、20代の初めを中心にして集まってきた兄貴の友だち、ぼくの友人などは、境遇に問題を抱えている人も多く、家に合宿のように泊まり込んでいた人は、いわば抱えきれない問題を抱えた、学校や世間から見れば問題児だったということだと思います。最後ごろは毎日のように警察官も来ていました。
でも、全然悲惨ではなかったですね。毎日が楽しくて仕方なかった。その楽しさが生きる力に繋がったと思っています。ぼくも友だちに救われました。