誰が言ったのかは問題でない
会議に提出した文書のできが悪かったので、消耗するような議論になってしまった。提出前の対応が悪かったと言うことだと思う。反省すべきだろう。
それにしても、会議というのは面白い。集団が生み出す人間の関係性がある。同じテーマなのに人間の集団が変わると、考えはじめる人が生まれて、発言が深まることがある。事前に検討していても、そのときに議論にならなかったことが、改めて議論になることがある。
出された意見を深めていき、その意見によって運動の内容をさらに考えて、対策を講じたい。会議によって出された意見を大切にして、新たな対応を深めていく。望まないような意見、驚くような意見が出されたとしても、どうしてそのような意見が出るのかをさらに深めていって、問題点や課題を明確にして対策を明確にしていけば、組織は前進すると思う。
誰が何を言ったのかが問題ではない。その人の考え方を問題にするのではなく、そういう認識になる何らかの客観的な現実があるので、フォーカスすべきはその事実にある。どうしてそういう風に考えるのかをテーマにして論じてはいるが、会議において問われているのは、自分たちの意識の外にある現実だ。
人間の認識には、レーニンがいうように何らかの現実からの反映がある。レーニンの哲学ノートにあるメモ、「弁証法の問題によせて」の最後の部分を引用しておく。
「人間の認識は直線ではなく(あるいは直線をえがいてすすむものではなく)、一系列の円へ、螺旋へ無限に近づいていく曲線である。この曲線のどの断片、破片、一片も、独立の、まったくの直線に転化する(一面的に転化する)ことができる、そのばあいにはこの直線は(木を見て森を見ないならば)泥沼に、坊主主義に導いていく(ここで支配階級の階級的利害がその直線を固着させる)。直線性と一面性、硬直と化石性、主観主義と主観的盲目性、これが観念論の認識論的な根である。ところで坊主主義(=哲学的観念論)には、もちろん、認識論的な根がある。坊主主義は根拠のないものではない。それは疑いもなくあだ花であるが、しかしそれは、生き生きとした、実をむすぶ、真の、強力な、全能な、客観的な、絶対的な人間認識の、生きた木についたあだ花なのである」
坊主主義というのは、観念論のことだと解釈されているので、坊主主義(=哲学的観念論)という注釈を付けている(レーニンのノートのメモなので、坊主主義については少し謝っておきたい)。強調したいのは、どんな認識であっても、そこには認識論的な根がある。しかもこの認識の根底には、客観的事物からの反映があるということが大切だと思っている。
誤った認識が問題なのではなくて、そういう認識に至る客観的な現実について、議論では重視して、その現実をどうするのかという議論へと発展させる必要がある。そういう点で、いろいろな発言には意味がある。そう考えている。
そういうことを考えるのは面白い。
土曜日の報道特集を観ていたら日本共産党の穀田さんが機能性表示食品の規制緩和(安倍晋三の政策)を批判し、危うさを指摘した際、「危うさは歴史が証明するでしょう」と予言した。その通りになった。福島の原発の危うさは、吉井議員が想定を超える津波で電源が失われる危険があると予言し、その通りになった。何故、皆んな日本共産党の議員の言葉を信用しないのか。いつになったら真剣に日本共産党の言葉をちゃんと聞いてくれるのか。
マルクスのドイツイデオロギーの中にあるいつの時代でも、支配者の思想がその時代の中心的な思想だという規定ですね。日本人は特に権威に弱いので、日本共産党が言っているというだけで、説得力を感じない人が多いように思います。
それではいかんのだがな。
戦争法も然り。戦争になってから、ああ、日本共産党の言ってた通りだった、と振り返っても遅いのだが。
本当よ。