否定の否定の法則

雑感,哲学

現在食べられているバナナは、品種改良の結果として作られている。

 子供のおやつにもポピュラーなバナナが最初に栽培されたのは、7000~1万年前のパプアニューギニアである。バナナもまた種類が豊富で、現在でもそのほとんどをアジアで見ることができる。
 長く黄色い品種はキャベンディッシュであり、これは細心の注意を払って改良されてきたものだ。直接の祖先はタイワンバナナ(Musa acuminata)とリュウキュウイトバショウ(Musa balbisiana)。前者は生で食べてもそれほど美味しくなく、後者はずんぐりと丸く、種が多い。
 数千年前のバナナ生産者は種類の違う両者を受粉させ、時折甘く、黄色く、種がないうえ、栄養も豊富なバナナが育つことを発見した。そうして作られたこの品種には種がないために、人工的に栽培されねばならない(つまりクローンである)。 
 したがってキャベンディッシュは病気に非常に弱い。遺伝子的に一様であるため、バナナを殺す病原菌が発生すれば、あっという間に全滅するおそれがある。(「カラパイア」より引用)「カラパイア」

弁証法は、対立物の統一という形で、相反する2つの傾向をもった性質が1つの事物を形成することを物質の存在の仕方として大胆に認めている。弁証法は、自然と社会のすべての事物が、弁証法的に存在していることを大胆に認める。
弁証法的に存在しているのは、事物を反映して成り立っている言語、人間の認識も同じだ。人間の認識を根底から支えているのは言語に他ならない。事物の存在の仕方や運動をとらえる言語は、事物の反映として構築されている。人間の歴史は、具体的な物質に対して名前を付けるだけではなく、そこから出発して具体的な事物の本質を表す概念を構築し、この概念を縦横に活用することによって事物や物質のより深い認識を発展させてきた。認識論、言語論は、奥が深く面白いが、「否定の否定の法則」を主題とした今日のテーマではない。

対立物が統一されて1つのものとして存在し、さらにそのようにして成り立っているあらゆる事物が、連関と連鎖の中にある。運動や変化を引きおこす根本は、事物の内容そのものであり、事物自身がもつ弁証法だが、すべての事物は、連関と連鎖の中にあるので、事物の発展と変化は、極めてダイナミックに展開されることになる。しかも、自然科学がいう物質も、哲学がとらえている物質も、階層的に成り立っており、その事物を成り立たせている条件が変わることによって運動の法則も変わる。原子までの物質の運動と原子よりさらに小さい素粒子の運動は大きく異なる。素粒子は、エネルギーが小さくてもエネルギーを超える運動をしたり、同時にAとBの場所に存在することを認めざるを得なかったりしている。ある素粒子には質量があるのかどうかが問題になったり、天文学では、人間が認識している物質世界とは違う物質の存在を認めないと説明がつかない現象に直面している。
物理学が扱っている物質は、化学が扱っている化合物や生物学があつかっている細胞などと比べると構造が単純だが、この単純な構造だと思われる物質世界だけでも、極めて複雑で多面性に満ちている。人類が解明できていないことの方が遙かに大きい。自然科学的な知識のない人々は、「自然科学で解明できない問題もある」とよくいい、簡単に「霊魂の存在」などを持ち出す。この根底には現在の科学の到達点が万能であるかのように思い込んでいる問題が横たわっている。一方、自然科学者は、「自然科学で解明できているのはごくわずか」という認識にあって、仮説のオンパレードという状況にある。仮説が正しいかどうかは、実験や観察によって照明されなければならないので、自然科学者は哲学的には、仮に不可知論の立場に立っていたとしても、最終的には唯物論の方法によって決着が着けられる。

物質や事物の運動は、階層性を持って豊かに存在しており、それらが絡み合って運動している。この豊かな運動をどうとらえるかをテーマにして、ぼくは、連関と連鎖の中でとらえるものの見方を展開してきたが、生成と発展、消滅を繰り返し絶えず変化している事物の運動をとらえていくと、すべての運動がAという形態からBという形態に移行するのを認めざるを得なくなる。AからBへの移行というのは、否定の要素を含んでいる。
変化の激しい生物の話を例にとってみよう。大豆は、豆の中に次の大豆を作るDNAが折りたたまれて存在しており、土の中に置くと芽が出てくる。この芽は大豆という種を否定して芽になり、双葉になり更に成長して大豆を作る苗になって、花を咲かせもう一度大豆を作る。大豆の豆が豆を否定して、また豆を作る。この変化は否定の否定である。
人間は、植物の品種改良を繰り返して、人間が望むような品種を作ってきた。専門家ではないので植物の形質がどのようにして引き継がれていくのかはよく分からないが、大豆から大豆を作る過程を繰り返していく中で品種改良が行われていく。これは否定の否定を繰り返す運動を意味するが、この運動は単なる循環ではなく螺旋的に円を描きながら発展するというイメージでとらえるのがいいと思われる。運動は螺旋的に発展する。これが否定の否定の法則だ。

恒星の変化発展の中には、超新星爆発からブラックホールへ、次の星の生成へという過程がある。これも否定の否定の一つの形態だろう。新しく生まれる星は、超新星爆発を起こした星とは、当然その構成物質の比率などは違ってくる。同じように見えて内容が違ってくるというのが否定の否定には含まれる。否定の否定の法則とは、必ず第1の否定があって第2の否定があるというようなものではなく、何度も否定の上に否定を重ねながら運動することを意味している。

弁証法が取り扱う否定というのは、破壊を意味しない。現在の状態を否定しながら、同時にその形質を受け継いでいる側面も存在する。物質はすべて運動の中にあるが、それは物質が対立物の統一という形で成り立っているところに根拠があり、その運動は量から質への転化をうみだし、物質の運動と変化は否定を限りなく繰り返していく。弁証法の基本法則というのはこういうものだが、この一般的な記述よりも現実の具体的な事物が、どのように変化し発展していくのかという物の方がはるかに豊かで、驚くべき内容をもっている。具体的な事物の具体的研究によって、弁証法はあとから認識される。研究に役に立つのは、人間の意識の外に客観的に存在する物質があり、事物が弁証法的に存在しているということだろう。そして、この物質の運動を反映する人間の認識が、どのようにして成り立っているかを徹底的に研究することが、具体的研究の導きの糸になる。ノーベル賞を受賞した益川敏英さんは、唯物論と弁証法を導きの糸にして、クオークが6つあることを提唱し、その存在があとになって確認された。唯物論と弁証法は、事物の運動を具体的に現実に即して見極める確かな力になるのは間違いない。


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雑感,哲学

Posted by 東芝 弘明