人間の意識は客観的事物の反映

雑感,哲学

哲学の講義を行うために、自分の認識がどのようなものなのかを試す意味もあって、哲学の基本命題について書いてきた。科学的社会主義の哲学は、事物の存在と運動がどのようにして成り立っているのかということと、人間の意識や認識がどのようにして成り立っており、言葉の中にある概念は、人間の意識の外にある物質との関係でどのように成り立っているのかを明らかにしている。これらの事柄は、哲学の基本中の基本に関わるものであり、現在の哲学者は、さらに社会のさまざまな問題にも発言をしていると思われる。その意味では、哲学者の果たすべき役割というのは、たくさんあると思われる。

同時に科学的社会主義が明らかにしている哲学的な命題は、自然科学と社会科学、人文学などにおいて生かされるべきものだろう。物質の運動法則と人間の意識との関係を鮮明に把握する哲学は、学問探究の導きの糸として、具体的事物の具体的研究に活用されなければならない。認識論は、音楽や絵画などの芸術にも生かされるべきだと思われる。
音楽は、音というものを扱っているが、人類の発展の中で音がどのような法則で成り立っているのかということを基礎にして、曲が組み立っている。もちろん不協和音を活用した音楽というものもあるが、音のもつ統一された法則性の中に無限の自由があるというのは面白い。
音楽にしても絵画にしても、それらは形を変えた言語であり、音を通じて何かを伝えようとしたり、絵を通じて何かを表現しようとしたりする。音楽にしても絵にしても、それらは客観的事物の反映として存在している。
文学は、人間の社会を文学の形式の中でどう反映して描くのかということを大きなテーマにしている。文学が、作品として世に出されて評価を受けるという関係であるかぎり、作者が意図しているかどうかを別にして、社会と作品という関係からは逃れることができない。人間の認識が外界からの何らかの反映の上に成り立っているという大前提を覆すことは不可能なので、言葉を通じて描かれる作品は、何らかの形で社会と切り結んでいる。

「否定の否定の法則」まで、思いつくままに書いてきた。これから先は意識と認識などについて書くということになるだろうけれど、これを書くだけの力量がない。
人間の意識は、人間の身体全体を通じて、外界から何らかの刺激を受けて反応し、外界を反映して形成されている。脳の果たしている役割は、その中でも極めて大きいし、脳は、人間の身体を通じて得られる反映を受け取って、決定的な役割を果たしている。しかし、人間の意識がすべて脳の働きだというようにするのは、単純化しすぎている。それらのことを具体的に理解して記述できないと人間の認識もリアルには語れないと思われる。その点では、この分野についての勉強不足がものすごくある。
感覚と意識、感情、認識などの関係を踏まえた上で、言語の問題に分け入っていきたいが、まずはそういう分野の「学び」を豊かなものにしないと書けない。

現状で知っていることに限って書くという方法もある。すぐにでも概念論は、深める必要がある。人間は、具体的な物質に名前を付け、自然科学上の分類が進んでいくにつれて言語を深く発展さっせてきた。人間の意識は、意識が芽生えた最初から社会的産物だった。人間は群れとして存在し、生活していた中で次第に言語を獲得していったが、社会が形成される段階に入ると、抽象的概念というものを発達させて、複雑な人間の意識の外にある外的世界の認識を深めていった。この概念の発展がなければ、人間は物質の法則をわがものとすることはできなかったし、人間自身がつくる社会という複雑なものも運用することはできなかった。
概念というのは、抽象的な思考だが、単純なものに対する名前とには、すでに抽象的な側面が含まれている。たとえば「りんご」という言葉から何を想像するだろうか。人によっては「ふじ」かも知れないし、「姫りんご」かも知れない。人によっては「王林」(あおりんごの一種)を思い浮かべるかも知れない。「りんご」という言葉によって、具体的にりんごのイメージが湧くとすれば、そのイメージは「りんご」という言葉によって抽象的に描かれたその人にとってのりんごのイメージだろう。
具体的な果物の名前である「りんご」という言葉は、それ自体は日本語という言葉の記号である。アメリカに行けば「りんご」はAppleになるし、イメージされるAppleは日本人の思い描くりんごとは違っていることが多いだろう。ちなみにアップル社のりんごは、カナダ産の「Macintosh」(日本語名「旭」)だった。
りんごを食べたことのある多くの人の頭の中には、りんごについてのイメージがあり、「りんご」という言葉を聞けば、自分の記憶の中にあるりんごがイメージされるだろう。このイメージは、具体的なりんごという物質から得たものであり、実際の固有のりんごから導き出されたイメージだということだ。
具体的な果物の名前である「りんご」という言葉には、すでに固有のりんごから導き出されたりんご像と結びついている。一人ひとりの人間の頭に浮かぶりんご像は、その人にとってはりんごの本質的なイメージになる。りんごの典型的な姿が思い浮かんでいるといってもいい。

言語というのは、このようにして具体的事物を反映してできているが、言語は具体的事物を反映するがゆえに本質的に抽象化を含んでいる。「りんご」という言葉は、りんごそのものを100%コピーするものではない。100%コピーできたら具体的物質として食べることができる。でも「りんご」という言葉は食べることができない。
同時に「りんご」という言葉は、具体的物質であるりんごからりんごの本質(その人なりの)を抽出して、りんごという本質的なイメージを人間の頭に思い浮かばせる。本質とは何なのか。それは、具体的な物質の中にあるもので、具体的物質を通じて存在しているものであり、具体的事物から抽象的に導き出されたものではない。

かつらぎ町は、平種無柿の産地なので、柿といえば平種無柿をイメージする人が多いし、「柿いらんかい?」と言ったあとに「平種無やけど」という言葉がくっつく。平種無柿が、渋柿でアルコールなどで渋を抜いて甘い柿になるのは、この地域に住んでいれば誰でも知っている。「平種無やけど」という言葉には、「『富有柿』とちがうさかい、柔らかくなるのが早いので、はよ食べてもらわなあかん」という意味が含まれている。このような平種無柿を作っているかつらぎ町の産地では、柿といえば平種無柿のことを意味するので、頭名の中には四角い感じの柿がイメージされる人が多い。具体的物質の中に存在する本質。具体的物質を通じてのみ存在する本質。これが本質という言葉の本当の意味だ。記号である言語を活用していると、概念が具体的いな事物を積み重ねた中で抽象的に導き出されたものだと考えがちだが、唯物論は、概念のすべては、具体的事物という現象の中に具体的に存在していることを忘れない。本質は現象する。現象をつうじてのみ本質は存在している。こういう風にして導き出された抽象的思考である概念は、具体的な事物を正しく反映すれば、事物の運動を正しく把握する大きな力になる。このような抽象は、事物の法則から離れるのではなく、より一層事物の本質、法則に接近する力になる。同時に、言語はその出発において、物質を記号として抽象化するものなので、たえず物質や事物から離れ、事実から遠ざかる危険性をもっている。

とまあ、こういうことを書いているとキリがない。しかし、言語と認識論。この分野は面白い。
認識論の入口だけ書いて、哲学シリーズの雑感(書きなぐったものですね)はおしまい。興味のない人にとっては、なんとだらだらとこねくり回して書いているよね。というmものだったかも知れない。

不破さんの『レーニンと『資本論』 マルクス主義論 3』を読み始めている。面白い。不可知論に対するエンゲルスとレーニンの違い。不破さんは深い。


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Posted by 東芝 弘明