戦後73年。8月15日に

雑感

戦後73年。8月15日の終戦記念日が巡ってきた。父のことや母のことが蘇ってくる。父は中国戦線で斥候として任務に就いていたことは以前に書いた。母は、20歳の時、小学校の教師として終戦を迎えている。母は、女学校を卒業し何歳のときに教師になったのだろうか。亡くなってから41年になるのでもう聞くすべは何もない。母が父と結婚したのは、30歳になる何年前だったろうか。戸籍を見ればこれは分かるかも知れない。
母の許嫁は、8月6日に沖縄の海の上で戦死している。この人がどのような人だったのかも知るよしもない。許嫁が生きていたらぼくたち兄妹は生まれていなかった。母と父との出会いは、美里町の長谷小学校に母が赴任してからのことだった。戦後どれくらい経って母は美里町の長谷小学校に赴任したのだろうか。
母の姉は、和歌山市内のMさんのもとに嫁ぎ、母の弟は野上で野上電鉄に勤めていた。
ぼくが結婚するときに、報告のためにMさん宅を訪ね、母の姉と丸正デパートに行って夕ご飯を食べたことがあった。
「あななたちのお母さんには、もう一人子どもがいたんやで。男の人に乱暴されて子どもができたんや。小学校の先生やったから問題になったんやけど、おばちゃんが一人で裁判して、裁判に勝ったんや。そやから先生をやめんでよかったんや。野上にいたんやけど、このことがあって山奥の長谷に飛ばされた」
夕ご飯を食べながら母の姉が語ったことは衝撃的だった。
「男の子やったんやけど、その子は里子に出されてね。『私を産んでくれた人は、どうしていますか』って聞かれたことがあって、『もう亡くなった』と話したことがあったんやで」「その人は、消防のえらいさんになっとる」

ぼくが結婚したのは34歳の時だった。その歳になるまでぼくたちにもう一人兄がいることは何も知らなかった。母にとっては、全く望まなかった妊娠と出産だった。母は、がんになった病室のベッドの上で、子どもたち宛に手記を書き始めていた。しかし、その手記は、ほんの少し書かれただけで先には進んでいなかった。もし、母がこの手記を書き続ける体力があれば、もう一人の兄のことについて、書いていたに違いない。

戦後の混乱の時期に、何歳のときに母が子どもを産んだのかもよく分からない。この流れを調べることもできるかも知れない。存在も顔も知らない兄は、和歌山県内に住んでいて、今も産んでくれた母のことも知らずに生活しているかも知れない。元気で生きているとすれば、60代後半だろうか。

戦争と戦争が引き起こした混乱は、いろいろな事件を生み出し、人々に多くの試練を押しつけたのだと思われる。母は、おそらく父と出会わなかったら結婚していなかった。戦争の影を戦後ずっと抱え続けて生きていた父は、母を強く思い恋い焦がれて結婚したようだ。しかし、その父は、酒で体を壊し、酒に酔えば軍歌を歌い、母に茶碗を投げつけ、暴力を振るっていた。
父は46歳で亡くなった。ぼくが6歳の時だった。父の葬儀の日は、梅雨なのによく晴れた日だったことを覚えている。終戦から21年が経っていた。父と母の人生を思うと、戦争がどれだけ多く市井に生きる人々の人生に影を落としていたかを思わざるをえない。

第2次世界大戦は、中国や東南アジアに対する領土拡大のための侵略戦争だった。植民地主義の時代にあって、ヨーロッパでヒットラーが電撃的に侵略戦争を展開したときに、これを絶好の好機として、日本とドイツ、イタリアで全世界を分割統治することを決めて、日本は植民地支配が行われていた東南アジアまで戦火を拡大した。

「なぜ、ヨーロッパの植民地支配を問題にしないで日本だけが責められるのか」
という意見がある。この意見を聞くと腹立たしく感じる。この考え方の中には、日本とヨーロッパが対等で、アジアを蔑視する感情があるのではないだろうか。日本が責任をまず負わなければならないのは、朝鮮半島や中国大陸、東南アジアに対する侵略戦争だったということにあるだろう。侵略戦争によって日本国民310万人が命を失い、2000万人以上のアジア諸国民が命を奪われた。日本は、このことに対する反省を基礎において外交を行うべきであり、いささかも歴史を歪めて論じてはならないと思う。

母は、教師として御国のために命を捧げることを教え、1945年8月15日には、子どもたちと一緒に天皇の玉音放送を聞き、日本が戦争に負けたと言って涙を流している。20歳の母は、日本の戦争が正しい戦争だと信じて、日本の勝利を疑っていなかった。残された手記を読むとそう感じる。10代や20代はじめの世代は、当時の軍国主義教育の中で、疑うこともなく戦争の正義を信じ込まされていた。戦後、教科書に墨を塗らせて、あの戦争が侵略戦争だったことを教えられ、母の戦争観は大きく転換したのだと思う。
母は教職員組合の一員になり、勤務評定闘争を戦い抜き、日本共産党を支持し、がんで入院する少し前に日本共産党に入党している。母の入党を知ったのは、ぼくが党に入って9年が経った27歳のときだった。母の波瀾に満ちた人生は、ぼくが18歳で自分で選んだ道と重なっていた。

ぼくが大人になるまで母が生きていたら、母の生きた人生を深く聞く機会があっただろうにと思われる。
ぼくたちの世代は、父や母が生きた時代から多くのことを学びとらなければならない。
日本が戦争を放棄し、武力を持たないとしたのは、日本の歴史的経緯から導き出された一つの結論だった。この結論は、当時の世界の中では極めて特異なものだった。日本国憲法に込められた理想は、アメリカが作成の中心を担ったが、アメリカが単に頭の中でひねり出したものではなく、ポツダム宣言や国連の結成など世界史的流れの中で生み出された歴史的産物だった。アメリカは、連合国の代表として日本を統治し、世界の要請のなかで憲法草案を起案した。この草案は、日本の帝国議会にかけられ、大日本帝国憲法の一部改正として議論され成立した。日本国憲法の章立てが大日本帝国憲法を踏まえているのは、一部改正憲法だからだ。
この憲法は、国民に押しつけられた憲法ではなく、当時の日本の支配者に対して押し付けられたもの、つまり戦争を遂行した勢力の手を縛り、国民主権と基本的人権、恒久平和を実現するためにつくられたものだった。

憲法草案を起案したアメリカは、国際情勢の変化の中で憲法施行から1年後の1948年には、憲法9条を改正すべきだという態度をとった。しかし、日本を全面占領していたアメリカをもってしても、日本国憲法を変えることはできなかった。国民の世論と運動が憲法を支持した。この力が憲法を変えさせなかった最大の力だった。父や母の歩んだ道と日本国憲法を守ることは、深くつながっている。

戦後すぐに起こった朝鮮戦争は、警察予備隊を生み出し、それが自衛隊に発展した。日米安保体制は、直接的には朝鮮戦争に対する措置という側面を持っていた。この朝鮮戦争が終結する約束ができた。中国と朝鮮、日本の明治以降の歴史に一つの区切りがつこうとしている。日本国民は、明治以降の日本の政策によって、人生を翻弄させられてきた。この流れに終止符をうって、朝鮮半島の平和体制の構築と完全な非核化が実現すれば、中国、朝鮮、日本を含む北東アジアの平和構想が実現する可能性が生まれてくる。これこそが、21世紀の前向きな変化ではないだろうか。憲法9条がより一層輝く未来が見えはじめている。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明