『風立ちぬ』再考

雑感,映画

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岡田斗司夫氏の「『風立ちぬ』を語る 宮崎駿とスタジオジブリ、その軌跡と未来 (光文社新書) 」を読んだ。いつものように夕ご飯を食べたあと、うたた寝をして、夜中に起き、シャワーを浴び、目が醒めて眠れないので本を読み、3時過ぎに寝るというパターンの中での読書だった。
この本への違和感を文章にする前に、自分の生活パターンについて、書いておきたい。

寝不足なのは、夕食の後のうたた寝と起きてからの異様に無駄な時間による。これをあらためたいと言うと、
「うたた寝をしないで、お風呂に入り、眠たくなったら眠る」
議会事務局の女性がアドバイスをくれた。
「3日、続けたら直るかな」
「一週間ですね」
彼女のアドバイスは的確だった。

夜中に読んだ岡田斗司夫氏の新書には、かなりの違和感があった。後味が悪いまま、布団の中に入り、考えながら眠った。
眠りながらだから、何にも考え方がまとまらず朝になった。

この本を読んだ方は少ないだろうなあ、と思う。
内容が分からない人は、Amazonのこの本に対するレビューを読んでいただきたい。少しはアウトラインが見えるような感じだ。読んだ本が手元にないので引用はできない。引用ではなく読んだ本の印象を書くことにする。
岡田斗司夫氏は、『王立宇宙軍オネアミスの翼』を企画した方だ。アニメにはものすごく詳しい。普通の人と違うのは、アニメの作り手の視点をもって、アニメを分析できる人だという点にある。この本の中では、『ルパン三世カリオストロの城』の冒頭のシーンが克明に分析され、解説されている。作り手の側に立って、アニメのシーンを克明に説明した人にぼくは出会ったことがなかったので、お金と時間がない中でどのように作画を節約したのか、作画の技術がないスタッフもいたので技術力のなさをうまく誤魔化している、というような解説には唸りをあげた。すごく克明な分析は読んでいて楽しかった。

アニメには、無駄なシーンというのはありません。全て描かなければ作品にはならないので、全ての絵には意味があり理由があります。
というような指摘にも目を見開かされた。実写映画の場合、カメラを回した結果、思いもかけずいいシーンが撮れたり、監督の思惑を超えて役者がいい演技をしたりすることはある。しかし、アニメの場合、全てを絵として描くことによって映画が動くので、全ての作画になんとなくや偶然いいのが描けたというのはない。この指摘は卓見だと思った。

岡田斗司夫氏は、宮崎駿の『風立ちぬ』の堀越二郎は宮崎駿そのものだと書いている。堀越は、人間の心の動きや機微が分からず、タダひたすら美しい物だけに心を奪われる人間であり、これは宮崎駿そのものだというのである。違和感はここにあった。

ぼくは、『風立ちぬ』を見たときに、映画の印象を次のように書いた。

「この映画を作るきっかけは、鈴木敏夫さんのアドバイスだったようだ。宮崎さんは、メカや戦闘機や戦艦の大好きな人で、同時に憲法第9条や日本国憲法そのものを守り、戦争を嫌っている人だ。鈴木さんのアドバイスは、そろそろ、この問題に答を出す時期ではないですか、というものだったらしい」

戦争のメカが好きでありつつ、同時に戦争反対を主張している宮崎さんに対し「この問題に答えを出す時期ではないですか」という鈴木さんの言葉には、この映画のテーマが何であるかを見事に語っている。しかし、岡田斗司夫氏の本には、鈴木さんの言葉の紹介もないし、この矛盾した傾向に対する言及もほとんどない。宮崎さんは、本当は戦争なんてどうでもいい、美しい物だけを見てそれを作りたいという堀越二郎に自分を重ね、ラストで菜穂子に「あなたは生きて」と言わせることによって、堀越二郎を赦すというものになっている、と言い切っている。

堀越二郎は、宮崎駿という人間を映し出したものではあるけれど、堀越二郎と宮崎駿には距離がある、というのがぼくの感想だった。宮崎さんは、堀越二郎の美しい物だけを見ていたい、美しい飛行機を作りたい、という姿を描きながら、この堀越二郎の生き方を批判する視点を同時に描いている。彼に対し、戦争のことを問いかけたり、ピラミッド社会であることを語ったりする人物を置いて、返事をしない堀越二郎に答えを求めたりしたのは、「そういうことに関心を払わなくてもいいんだよ」というものではなく、堀越二郎よ、そういう生き方でいいのか、という宮﨑さんなりの問いかけだったのではないだろうか。
そういう複眼的な視点がなければ、戦争を批判的に捉える視点をたえず堀越二郎にぶつけなかったと思われる。アニメの全てのシーンには、必ず描いた絵についての理由があるのであれば、なぜ宮崎さんが、くり返し戦争の意味を投げかけ、それを見なかった堀越二郎を描いたのか、十分説明できないのではないだろうか。

ラストシーンは、死んだ菜穂子が、戦後堀越二郎に対し、「あなた、来て」と言わせる予定になっていた。これを「あなたは生きて」に替えたのは、鈴木敏夫さんのアドバイスでもあった。「あなた、来て」は、死後の世界への誘いであり、「あなたは生きて」は、堀越二郎に対する癒やしだったのだけれど、宮崎さんは、自分では堀越二郎の生き方を否定しようとしていたとも読める。最終段階でラストをひっくり返すことによって、『風立ちぬ』は、かなり厄介で複雑な作品になったのではないだろうか。

ぼくは、『風立ちぬ』について書いた文章の最後をこう締めくくった。

「宮崎さんが抱えていた矛盾は、解決せず、矛盾は矛盾のまま、しかも新しい問いかけを持って観客の前に差し出したという思いに至ったのは、何だか嬉しい。
宮崎さんの作品には、いつも解決できない問題が含まれている。今回の「風立ちぬ」もいつもと同じように、解決できないかなり大きな問題が含まれていた。ただし、今回の謎は、宮崎駿さんという作家論がなければ、接近できないように感じた。観客の評価のかなりの部分に「何が言いたいのかよく分からない」というものがあるのは、宮崎駿監督自身が作品の謎解きの暗喩(メタファー)になっているからだろう。
作品に問題があるとすれば、作品だけで完結しない謎になっているところに原因がある」

かねてから矛盾している傾向を内包していた宮崎さんに、その問題を正面から描いてみてほしいという鈴木敏夫さんの提案を受けて作られた『風立ちぬ』は、答えを見いだせないまま、しかし、堀越二郎の生き方をやや肯定しながら、すっきりしないまま幕を引いた作品になったと思っている。
岡田斗司夫氏は、宮崎さんの憲法擁護論なんてほとんど意味がないと断言している。岡田氏は、複雑な宮崎さんを複雑でない単純な堀越二郎に押し込んだ結果、宮崎さんの抱え込んでいる矛盾を見失った。岡田斗司夫氏は、映画のシーンに込められた複雑な輻輳するメッセージを読み解きながらも、作品の中心点を把握できなかった。堀越二郎=宮崎駿という着想にこだわりすぎて、本気で憲法を守りたいという宮崎さんの本音が見えなくなってしまった。

アニメの作画にはすべて鮮明な意図があるだろう。しかし、鮮明な意図を織り込んだ膨大な作品は、縦糸と横糸を紡いで織物を作るように、作品には新しい表情がオーバーラップするように折り重なっていく。作画を徹底的に分析するだけでは作品の真実には届かない。作品を通じて描かれているものを感じ取るという視点も大切になる。作者や監督は作品世界に君臨する神様ではない。創作には、たえず意図を描ききれないという課題が立ちはだかる。創作という努力に寄り添って、作品から色々なものを感じ取るところに批評が成立する。
『風立ちぬ』は、エンターテインメント作品にはなっていない。宮崎駿さんのこの最後の長編は、テーマと格闘し答えを十分に見いだせなかったという点で、宮崎駿さんという監督の姿を克明に映し出す作品になった。最後の長編にふさわしい作品だった。宮崎さんと対話したければ、「風立ちぬ」を見ればいい。話は尽きることがない。

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雑感,映画

Posted by 東芝 弘明