不破さんの古典講座

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不破さんの古典講座を受講した。
エンゲルスの資本主義の根本矛盾についての講座は、エンゲルスの「空想から科学へ」のこの規定と、マルクスの資本論の規定の違いについての話だった。
資本主義の根本矛盾は、資本によるあくなき利潤追求=剰余価値の生産にあるというのが、マルクスの解明した点であり、エンゲルスの「空想から科学へ」では、剰余価値の生産という視点なしの規定になっており、不十分な分析に留まっているというのが、講座の中心命題だった。
エンゲルスの「空想から科学へ」では、資本主義の根本矛盾は、商品の社会的生産と資本主義的取得の矛盾にあるとされ、この矛盾は、ブルジョアジーとプロレタリアートの対立として発現し、またここの向上における生産の組織化と社会における生産の無政府性との矛盾として明るみになるとしている。
この規定に対し、不破さんは次のような解説をおこなった。
このエンゲルスの規定には、剰余価値の生産という視点での分析がない。ブルジョアジーとプロレタリアートの対立は、ある時期になると、発現するというような現象形態ではない。生産の社会化と生産の無政府性は、商品経済にたえずつきまとうものであり、資本主義の特有の現象形態ではないし、他の企業との競争のない独占体となり、生産を一企業の手によって完全にコントロールできるようになって(日本の電力会社がその一つの例)、ー無政府状態とはいいがたい状況になっても、資本としての問題は無くならない。
こういう指摘をした上で、不破さんは、では、マルクスは資本論で資本主義の根本的な性格をどのように規定したのかを説明した。
そのために引用した文章の一つを紹介する。

資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。資本主義的生産は、社会のためでなく、資本のための生産にすぎない。このような制限は、資本が自分の目的のために充用せざるをえない生産方法、しかも生産の無制限な増加、自己目的としての生産、生産力の無条件的発展を目ざす生産方法と絶えず矛盾する。既存資本の価値増殖という制限された目的と社会的生産力の無条件的発展という手段とは絶えず衝突せざるをえない。

資本のための生産は、あくなき剰余価値の生産というものだが、この生産を真に制限するのは、資本そのものだという規定は、奥が深いと思われる。資本主義的生産を制限するのは、それぞれの会社の資本の状態による。爆発的に商品がヒットして量産体制に入ったとしても、一定の期間に生産できる商品の量には限界がある。資本の生産を制限するのは、その会社の資本そのものである。10倍の生産を上げたいという衝動に駆られても、工場の規模や状態によって生産は制限される。
さらに奥が深いのは、次の点だろう。
資本は、剰余価値を増大させるために労働者の搾取を強める。資本はあくなき利潤の追求のために生産を増大させる衝動に絶えず突き動かされるが、結局、一方の側に資本を蓄積させながら他方には貧困を蓄積させる。資本は、労働者の賃金を劣悪な状態にする一方で、商品を販売する際には、労働者が金持ちであってほしいという願望を持つ。生産過程で、労働者を搾り取れば搾り取るほど、資本の儲けは増大するが、これは同時に国内市場をますます狭いものにしていく。
生産のあくなき増大をはばんでいるのは、まさに資本そのものということになる。
自業自得だ。
この10年間で、日本は経済が伸びない国になった。国民一人当たりのGDPの低下は歴然としている。しかし、このような傾向は、日本の資本にとって果たして失敗だったのか。
そうは単純には考えていないような気がする。日本の巨大独占資本にとっては、あくなき利潤の追求が至上命題なのだから、内部留保を増大させ、儲けを増やしてきた企業にとっては、この10年間の新自由主義的な改革の多くは、成功したという評価なのではないだろうか。
今起こっているのは、好景気の後に生まれた恐慌状態であって、巨大企業は、このような状況下でも自分のところの企業の儲けが増えるのであれば、成功しているという評価なのではないだろうか。不況の時代だからこそ、儲けを上げて資本を蓄積しているところもあるはずだ。
わが会社の資本が増大すればそれでいい──ここに企業の神髄があるのではないだろうか。
講義を聴きながら、こんなことも考えた。


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Posted by 東芝 弘明