小説のもつ力

雑感,文学

心惹かれる小説を読むと、自分の行動をもう一人の自分が見ていて、描写しているような感覚が生まれる。体を動かすたびに文章がその状況を描写する。文章を書くとしばらくは自分の書く文章のトーンがその作家と似てくる。それはほんの一時的なものだが、こういうことを積み重ねていると、自分の文体というものが変わってくるのではないかと思う。

こういう感覚になるのは、小説とエッセイ。評論文などではこんな感覚は生まれない。自分の行動を文章で描写したくなるのは、小説が描写するものだからだろう。芥川賞を受賞した『コンビニ人間』の冒頭は、コンビニ店員の視点に沿った情景描写から始まる。日常、よく利用するコンビニの音を思い出させてくれた。ここで働く人は、かなり仕事を覚える必要がある。主人公の古倉恵子は、18年間コンビニの定員として生きてきた。新しいビルが建つとお客さんが増えるかも知れないという考え方をする。コンビニが効率よく運営できるように、早く起きた日は、一駅前で降りて町を歩く。歩きながらコンビニのお客さんの新しい流れを把握する努力をしている。

コンビニという空間は、一言で言うと「便利」という言葉で表される。
税金を払う、切手を買う、郵便局への送金ができる、銀行のキャッシュコーナーでお金を出し入れする、チケットを購入する、通信販売の支払いを行う、宅配便を受け取る、雑誌を定期購入する、椅子とテーブルのあるお店ならカップ麺にお湯を入れて、食事をすることもできる。買い物という点では、あの狭い店内で食生活から生活に必要な小物、下着などまであって、さまざまな物が購入できる。最近は各コンビニでドーナツ戦争が起こり、エスプレッソやカプチーノなどのコーヒーが飲めたりする。
どのお店にいっても、チェーン店なら同じような食品配列になっているので、知らない町に行っても、コンビニがあれば迷うことなく買い物ができる。
この便利を徹底的に支えているのが店員だ。便利になればなるほど、覚えることも多くなる。商品を徹底的に管理し、売れ筋商品を発注し、24時間徹底的に効率よく管理されて、運営されている。24時間開店する最大の理由は、商品の配送にある。必要な時刻に必要な品物を店頭に並べるためには、夜中の配送が欠かせないのだという。
ぼくの住むかつらぎ町では、高野山に登る坂道の手前の交差点にセブンイレブンがある。朝7時に行ってもお客さんが列をなしていることがある。7時30分頃は駐車場にも車が溢れている。買う側は当たり前のように思っているが、朝の7時に店頭に綺麗に商品を必要な分だけ十分に並べるためには、朝の5時台には搬入されていなければならない。これを毎日繰り返し、365日続けなければ、朝7時に会に行けば、必要な物が手に入るという状況は生まれない。

「便利だよね」
一言で片付けられている裏には、想像をはるかに超えるシステムが横たわっている。ぼくは、『コンビニ人間』を読む前からコンビニのシステムについては、ほんの少しだけ、いろいろなオーナーから話を聞いて知ってはいた。しかし、日常のコンビニがどのようなシステムで具体的に動いているのかについて、具体的な思考をめぐらせることなどはできなかった。しかし、『コンビニ人間』は、新しい視点を与えてくれた。
小説は、人間が具体的に生きている姿を「描写」という中でリアルに再現する。作品世界に導かれることによって、読者は、新しいものの見方を与えてもらえる。まるで空を飛べる羽をもらうように。

作者が物語を通じて伝えたいことを読者が受け取る場合もあれば、具体的な描写によって再現された作品の世界から読者が受け取るものもある。小説には、いろいろな側面がある。多面的に描かれる小説は、豊かな顔をもっているので、それを受けとめた読者から、新しい物語が始まったりする。歌が、人々の生活に入り込んで、さまざまな個性豊かな思い出を形成するのと同じように。


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雑感,文学

Posted by 東芝 弘明