受験力と本当の学力

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教育に競争は必要ないと思っている。
教育で大切なのは、知的好奇心と自分が成長していく喜び。この2つで学ぶ意欲を引き出していくことが大事なのだけれど、現在の日本の教育は、競争を組織することによって学ぶ意欲をかき立てているといえるだろう。
内発的な動機が教育にとって、根本的に重要なのに、内発的な動機を培わないで、受験のためにがんばらせるということになっている。最近は、大学受験さえ目標ではなく、いい就職を実現するためにいい大学に入り、そのためにはいい高校に入り、そのためにはいい中学校に入るということになりつつある。
学ぶことが就職のための手段にしかすぎなくなって、学ぶ目的が教育の内容からかけ離れていく。
こういうことを積み重ねていくと、数学を学ぶ意味が分からないとか、学ぶことが何の役に立つのかということになってしまう。
進路指導もいい大学に入ることが自己目的化して、大学に入って何を学ぶのかということが完全に欠落していく。
本来なら、経済学とは何か、なぜ経済学を学ぶのかとか、哲学を学ぶ意味とか、文学を学ぶ意味とかを知って大学を選択すべきだろう。医学部とか教育学部とかいう選択はいい。これは、医者になりたいとか教師になりたいとかいう職業観と直結した進路選択なので、学ぶことと将来の目的や夢がしっかり結びあっている。職業観を鮮明にもって、大学の進路を選択することが、大事なのはこういうところにある。
学問の豊かさと面白さを学び、その幅の広い学びの中から職業を選択していけるようになれば、子どもの夢は開けるだろう。しかし、現状の教育のあり方は、こういうこととはほど遠い。
日本社会では、受験競争に勝たなければ、自由な職業選択ができないという問題がある。これは大きな矛盾だろう。学びの豊かさや面白さを形骸化する競争の教育のなかで、この流れに打ち勝ちながら、受験的な学力を培いつつ、ほんものの学びの面白さをつかみ、学んでいくことができるだろうか。
本物の学びと受験学力というものを両立させられる器用な人間が、どれだけいるだろう。
こういう難しいことをすべての子どもに強いるのが、日本の学校教育なのかも知れない。
器用に両立させた人だけが、豊かな学びと受験力を身につけられる。
受験力だけを学びだと信じて生きた人々は、社会に出てから苦労する。そんな細い、答えをすぐに求める受験力だけでは、社会人としては生きていけない。
暗記力に極端に比重を置く受験力では、問題を解けない。ぼくたちの目の前に横たわる問題は、まず問題としての形をとらない。試験ではないから。自分で物事を見て、問題を立てて、その問題を解く努力が必要になる。
問題を解くには時間がかかるし、試行錯誤を重ねてもなかなか問題は解けない。現実を分析する力、総合する力、帰納し演繹する力、現象の中にある本質を見抜く力などなどがなければ、問いを立てることも、それを解くこともできない。
本当は、学校教育の中で、このような本物の学力を培うことが求められているのだが、大学入試の一発試験のためには、知識詰め込みと知識引き出しの学力が問われる。
中学校、高校は、悲しいことに受験という枠の中に完全に羽交い締めにされている。学問とは何かを考える余裕すらない傾向が強い。それは、間違いなしに教育の貧困そのものだろう。
大学には、学問の自由と研究がまだ広く大きく存在している。しかし、受験システムと研究との落差は大きい。大学に入り、研究を行おうと思えば、歪んだ受験力というものを捨てなければ脱皮できない。
この脱皮がかなり大変なのだ。学びの本当の姿を学生がつかまないかぎり、脱皮できない。


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Posted by 東芝 弘明