国民生活中心で右肩上がりの経済発展を

雑感

笠田小学校の運動会が9時から開かれた。
2年前までPTAの会長をしていたのに、娘が卒業したのでそこから離れると、来賓の一人になって議員という立場で出席となった。
1年生の可愛い女の子が、ラジオ体操をしていた。体を曲げる姿が可愛らしい。
わが家の娘も、あんな感じだった。

時間が止まったらいいのに。そんなことがふと浮かんでくる。

成長には成長の喜びがある。中学2年生になった娘は、次第に大人の世界が見えてきて、世間についても対等に話をするようになりつつある。娘とそういう話をするのも楽しいのだけれど、背のちっちゃな、たよりなげな、しぐさの一つ一つが可愛い、そういう子どもの時代を懐かしく感じる。

笠田小学校は、新しい建物になり、グラウンドにも新しい土が入れられて、見違えるように綺麗な環境の下での運動会になった。統廃合によって、子どもたちの人数も増えて、元気あふれる競技が行われていた。
11時から葬儀への参列という用事があったので、グラウンドを取り囲んでいる観覧席を一周して、色々な人と対話を楽しんでから会場を後にした。

午後7時から日本共産党の経済懇談会があったので、Kさんといっしょに会場に行った。
お話をしていただいたのは、堀内照文さん。兵庫を中心に活動している比例代表の衆議院予定候補だ。
経済提言についての説明後、会場との質疑応答になった。
ある方が「これだけ日本社会の構造が変化しているのに、右肩上がりの経済発展はあるのか」という趣旨の質問をおこなった。
「日本共産党の経済提言は、日本の現実を踏まえて、そこから導き出されたものです」といういい方で説明をはじめた。

この話を聞きながら、今まで多くの人と話をしてかみ合わなかった問題が、突然見えてきた。
かつて、テレビで世耕弘成さんが、「もう右肩上がりの経済発展は望めません」と語り、どれだけ社会保障を削るかという発言をおこなったことがある。
「右肩上がりの経済発展は望めない」
この言葉の背景には何があるだろう。
それは、端的にいって、「(大企業による)右肩上がりの経済発展は望めない」ということではないだろうか。
(大企業による)という言葉は隠されている。
「右肩上がりの経済発展」という言葉に反発を感じる方々も増えている。従来型の「右肩上がりの経済発展」というのは、大企業の儲けが蓄積していくことによって経済が発展してきたモデルを指している。反発している方々は、あのようないわば、エコノミックアニマル的な「右肩上がりの経済発展」はごめんだということではないだろうか。

日本共産党が経済提言で描いてる「右肩上がりの経済発展」は、大企業の資本蓄積を中心とした経済発展ではない。疲弊している地方都市や農村地域の地域経済力の活性、つまり国民の生活と営業を守る地域経済の再建、活性化をつうじて実現する「右肩上がりの経済発展」だ。
これは、農林水産業の再建と中小零細企業の活性化による日本経済の立て直しによって、「右肩上がりの経済発展」を生み出そうという提言になっている。名目の経済成長率は、2.4%。この経済成長率を実現すれば、経済の発展によって税収が20兆円増えるという試算になっている。
大企業中心の経済発展ではなく、国民中心の経済発展への転換。この転換によって実現する「右肩上がり」は、日本の資本主義社会の発展の過去の姿とは、大きく違うものになる。
社会保障の充実と地域経済の活性化、国民の所得向上は、未来に明るい夢と希望を開くものになる。
これは、70年の万国博覧会の「人類の進歩と調和」というスローガンの本当の意味での再建となる。

こういう希望を開くためには、国民が大きく力を合わせなければならない。もちろん政治を変えることが必要になる。
日本共産党と一緒に新しい日本の実現を。国民の力が合わされば、展望は現実のものになる。

経済提言の学習会は、ぼくに新しい視野を開いてくれた。こういう発見がある学習会は面白い。


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雑感

Posted by 東芝 弘明