体罰について考え始めていること

雑感,教育

学校の体罰問題が、テレビの追っかけによって、次々と出てきている。でも、報道の仕方を見ていると違和感を感じる。
この違和感はどこから来るのだろうか。
テレビという媒体は、結局は視聴率が一番大事であって、そのことを最大の目的にして、情報を収集しているように見える。まともに問題の本質に向きあって、解決のために深くものごとを考えていくものではないとさえ思えてくる。
それは、橋下さんのこの問題に対する対応の仕方にも感じる。橋下市長は、自分の露出のために、テレビという媒体を最大限に活用して、桜宮高校の事件を利用しているように見える。

体罰問題を解決するためには、起こった事件をじっくり見つめ、体罰の背景にあるものが何なのか、問題を解決するためには、どのような取り組みが必要なのかを考えることが大切だと思う。
それなのに、そういう方向に向かうのではなく、入試の中止と先生の総入れ替えという方法に走って、結局はその是非についての議論を巻き起こして、体罰問題についての議論を深めるということから、問題をすり替えてしまったように見える。

会社の不祥事の際の問題解決の仕方は、謝罪と首のすげ替えだろう。経営体の場合、その会社の社長や会長でなくなって、会社を去ることが、その人の利益にとっては大きなマイナスになるので、責任の取り方=地位の剥奪ということにかなりの意味が出てくる。しかし、この方法が教育の場で同じような意味をもつだろうか。

橋下さんの採った方針についても触れない訳にはいかないので少しだけ書いてみよう。
入試の中止をおこなって、普通科入試に切り替え、実態はほとんど変わらないというのは、橋下市長によるパフォーマンスだと思われる。勇ましい極端な方針を打ち出して、センセーショナルに問題を提起して、無難なところに落とし込んで形を整えている。このようなやり方に何の意味があるのかというと、問題を起こして目立ちたい、自分に注目を集めたいということに尽きてくる。問題の解決が、玉虫色になればなるほど、橋下さんのパフォーマンスだけが残ってくる。

学校からの教員を異動させるという方策は、一つの方法だろうが、この方法が果たして教育的なものかどうかは、検討すべきではないだろうか。問題を起こした先生が、これからも教師という職業について、生徒と向きあうというのであれば、自分のおこなってきた指導方法について、深く考え直す必要がある。しかし、そういうことが、どのような形で行われるのかは、まったく見えてこない。
より根本的に問われているのは、個人の責任ではなくて(もちろん、体罰問題を起こした先生の個人としての責任はあるのだけれど)、学校からどうやって体罰をなくすのか、ということだろう。この課題は、いじめ問題と同じようにかなり根の深い問題だと思われる。
スポーツ指導の中にどうして体罰が入り込んでくるのか、体罰を伴う指導とは一体何なのか。何のために体罰を行うのか。体罰を伴わないクラブ指導とは一体どういうものなのか。スポーツに体罰は一切必要ないというのは、具体的にはどういうものなのか。など体罰のもつ問題を深くとらえ直すとともに、体罰を必要としない指導方法の確立、ものの見方考え方をつくりだしていくべきだろう。そのためには、まず法律がなぜ体罰を禁止しているのかという大前提の問題で合意を形成する必要がある。

教育は、失敗から学ぶところにも意義がある。人間の再生や人間の再出発に教育の深い意味がある。学習の世界のおける失敗は、学びの契機として豊かに把握されなければならない。人は誰でも誤りや過ちを犯す。社会は、過ちを犯した場合は、法によって裁かれるということだが、教育の世界では、裁く問題と同時にそこから学び再生していくことを課題にしなければならないという側面がある。失敗を許さないというルールや失敗すれば更迭するというルールだけで対応すると、成果だけを追求する殺伐としたものになってしまう。このようなルールだけでは、教育が死んでしまう。

体罰を肯定する人は多い。今日読んだ新聞記事に教研集会の記事があり、そこには、体罰は子どもに暴力を肯定する考え方を教えるということだという指摘があったと紹介されていた。まさにそういうことだと思う。
生徒を全国大会に出場させ優勝に導いたなら、その先生が体罰を行っても「許される」という気持ちが出てくる。「厳しい指導だったが、ああいう指導があったからこそ優勝できた」というようになる。人は、物事の結果からことの善し悪しを判断する傾向がある。
人間を見る深い目、信頼関係、卓越した指導力、指導理念、指導する技術、そういうものがあれば、体罰やしごきなどは必要なくなる。スポーツにおける民主的な指導とは何なのか。科学的な練習方法や指導のあり方を内容豊かに広げ、確立する中で体罰を排除するという流れは確実に発展している。そのことを積極的に大胆に取り入れ定着させるという建設的な運動へと発展させないと体罰は一掃できない。

スポーツ以外の分野で学校の中に存在する体罰は、生徒指導との関係で起こることが多いように見える。この分野の体罰は、部活動における体罰とは、違う側面をもっている。自主的に入っている部活動の中で、指導者と生徒の間に存在する体罰とは意味合いが違う。学校によっては、荒れている子どもたちの暴力に対して向きあっている場合もある。子どもによる暴力に対して力で抑え込むという対応の仕方は、力のない女性教師の授業が成立しないという傾向を生み出したりする。学校全体が、荒れている子どもに対してどう向きあっていくのか。問われているのは、教師と生徒の信頼関係をどう生み出していくのかということだろう。

体罰とは何なのかということを、冷静に深く考えていく機会になるようにしてほしいと思う。しかし、今の民放テレビの報道の仕方は、問題の解決のためにどうすればいいのかという方向に向かっているようには見えない。
自分たちの感覚だけで論じてはいけない。大事なのは事実に基づいて考えるということだ。問題をセンセーションに報道するのではなく、一緒に問題を考えるというアプローチが必要になる。

教育の世界に潜んでいるいじめや体罰の問題を、ぼくはまだ深くとらえられていない。現在の自分の持っている認識だけで物事の是非を判断するのは間違っていると思っている。
桑田真澄さんの話を深いと感じるのは、あの人が自分の体験だけではなくて、スポーツにおける体罰をテーマに研究して、実態を把握するとともに、どうすれば体罰が必要なくなるかについても深い認識をもっているからだと思う。物事を把握するためには、たえず根本的にことに通じる努力が必要になる。物事を把握する過程でテーマにしている対象への認識は深まる。それは事実に基づいて考えを発展させるということにほかならない。
事実に対する深い把握と豊かな考察、そういうことから深く学んでいきたいと思っている。


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Posted by 東芝 弘明