「推理小説を書いたことがある」

出来事

『[実践]小説教室』を机の上に置いていた。和歌山市内での会議だった。古いビルの3階の会議室だった。
「この本、面白いかい」
横に座ったkさんから声がかかった。
「面白いです。純文学とエンターテインメント小説との違いは、哲学に比重があるのか、物語に比重があるのかの違いだと書いてる。ものすごく分かりやすかった。純文学とエンターテインメントでいえば、ストーリー性が問われるエンターテインメントの方が難しいとも書いています」
「東芝君は、小説を書きたいのか。ぼくも買ってみよう」
kさんの返事は素早かった。
「400枚の推理小説を書いたことがある」
思いもよらない言葉が飛び出した。
じぇじぇじぇ、
内心そう思った。
「トトロの続編も書いたことがある」
さらに、じぇじぇじぇ、だった。
先輩だったkさんが、先生に見えてきた。

今日は、『[実践]小説教室』を全て読み終えた。
感想が湧いてきた。
人はなぜ小説を書くのだろうか。それは、小説を書きたい人が、自分で答えを見つけ出さなければならない。誰かが答えを持っているというものではない。人によっては、それを探究するために小説を書いている。

「単に過去をふり返るのは『回想』である。小説を書くことは単なる『回想』ではなく、過去のある一点からもう一度生き直すことだ」
これは森敦さんという作家が芥川賞の授賞式で語った言葉だ。この言葉も本の中に紹介されていた。
自分の人生で歩んできたことに、答えがあるわけではない。具体的に体験したことを土台にして、小説の中で描くということは、単なる回想ではなくて、小説を通じて、もう一度人生を生き直すことになる。
この言葉の意味は深い。とことん、自分の生きたことを問いなおしたり、体験を土台にして再構成したりする中で、作家は深く物事を考えていく。問いかける旅に出たり、問いかける思索を繰り広げたりする。答えが出るとは限らない。むしろ、出ないことの方が多いかも知れない。
でも、答えは出なくてもいい。そう簡単に答えは出ない。ただし、小説の中に希望を書く。それは、こうあってほしいという願望でもいい。

この本から学んだことの一つは、こういうことだった。
何だか霧が晴れた。ぼくは、高校時代のことを少し書き始めている。漠然とした不安は、自分の高校時代を書くことの意味が鮮明になっていなかったことにある。何のために書くのか、というテーマさえ曖昧だった。でも、習作としかいいようのない小説を書きながら、この年代のことを書かないと、前には進めないという思いがあった。
本を読んで自分の中のテーマが固まってきた。恥ずかしいからテーマについては書かない。
本には、小説を書くのは恥ずかしいと書かれていた。それはものすごくよく分かる。

和歌山からの帰り道、打田から粉河に入るところで24号バイパスは終了している。信号待ちで車を止めた。気温もまだ高く天気も良かった。ファミレスのジョイフルを過ぎたときに、右側と左側に、金色を弾いている稲穂が見えた。秋が車の中に入ってきた。空には刷毛で描いたような雲があった。新しい発見が景色を綺麗に見せていた。


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出来事

Posted by 東芝 弘明