SFとしての竹取物語

雑感

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「かぐや姫の物語」について、映画を観る前から考えはじめていたことがある(映画のネタばらしではないのでご安心ください)。書いてみたいのは竹取物語のことだ。
竹取物語は、10世紀の半ばには成立していたらしい。つまり900年代半ばには、物語として存在していたということになる。源氏物語よりも50年ほど古い。日本最古の物語が、SFだったというのも面白い。
丸い月に地球と同じように人が住んでいると考えた竹取物語の発想は、どこから生まれたのだろうか。
地球が球体だったと考えた人のことを少し紹介しよう。話は、紀元前のギリシヤに遡る。古代ギリシャ人の到達点は非常に高い。ウキペディアを引用しよう。
「紀元前6世紀のギリシアの哲学者ピュタゴラスおよび同じく紀元前5世紀のパルメニデス地球は球形であると洞観して以降、球体説はギリシア世界に急速に広まった。紀元前330年頃には、アリストテレスが自然学的理論と観察的根拠から地球は球形であると主張した。地球の周長は紀元前240年頃にエラトステネスによって初めて算出された。紀元後2世紀までにプトレマイオスが曲がった球から地図を作りだし、緯度・経度・気候の理論を発展させた。彼の『アルマゲスト』はギリシア語で書かれ、11世紀にやっとアラビア語訳を介してラテン語に翻訳された。」
「マロスのクラテス(紀元前150年頃)の地球儀
紀元前2世紀に、マロスのクラテスが地球儀を作ったがそこでは世界は大きな川もしくは大洋によって四つの大陸に分けられており、そのそれぞれに人が住んでいると考えられていた。」
すごいでですよね。紀元前6世紀には、地球が丸いと考えたピタゴラス。紀元前150年頃には、地球儀まで作られていたというのだから驚きだ。

日本では、「日本書紀第1章には大地は平面状で乾いた島々が「油のように」水に浮かんでいるという古代日本の世界観が描かれている」「日本には16世紀後半まで地球という概念が存在しなかった」(ウキペディア)。というのだから、丸い月に天上人が住んでいるという考え方のある竹取物語というのは、貴重な存在ではないだろうか。

ちなみに、コペルニクスが地動説を唱えたのが1535年とある(「地球の動き方」という論文、主著『天体の回転について』はコペルニクスの死後1543年まで発表しなかった)。地球球体説よりも地動説の方がはるかに成立が遅い。地動説と竹取物語は、何の関係もないが、丸い月が人間の住む地上と同じように、天上人立ちが住む場所だったと考えるところに、なんだか不思議さを感じる。

姫が犯した罪と罰という考え方が、竹取物語にあり、天上のものである高貴な人々と汚れた地上の世界との対比がある。姫が地上に降ろされて、光る竹を割ると出てきたこと、3か月で成長したこと、やがて罪を償って天上に帰るときのさまを竹取物語は描いている。仏教公伝は538年とされているから、この竹取物語にも仏教の影響が見て取れるのではないだろうか。
月は、満月の夜もあれば新月の夜もある。この形を変える月をどう考えていたのかは、竹取物語では定かでない。しかし、輝く月のイメージは、かぐや姫のイメージとして至るところに現れている。月を天上のもの、高貴なものと考えていた作者の感性は、おそらくその当時の日本人にも受け入れられたのだろう。姫を守るために武装しても、全くたたかいにもならないという描き方も、圧倒的な力の差を見せつけている。

人間の愚かな欲と浅はかさを描いたように見える竹取物語。この物語の主人公は、本当はかぐや姫ではなくて、愚かな役割を演じた人間だったのかも知れない。このお話しを、かぐや姫を主人公にして描いたのが「かぐや姫の物語」。
高畑勲さんは、竹取物語に描かれたかぐや姫が、人間としての具体的な形象を与えられていないことを充分知り、愚かな人間を描いたこの物語を、姫の物語としてアニメーションにした。「かぐや姫の物語」という題名には、高畑さんの非常に深い愛情がある。ぼくにはそう思える。かぐや姫を愛おしい人間として描いた高畑さん。この優しさは、竹取物語の現代的な再生だった。


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Posted by 東芝 弘明