第55回笠田中学校卒業式

出来事

第55回笠田中学校の卒業式に来賓として参加した。55人の卒業生。最初名前を呼ばれた男子生徒の誕生日が10月29日、最後に名前を呼ばれた女子生徒の誕生日が10月29日だった。
来賓の方々の話や送辞と答辞を聞いていると、おのずから人生とは何だろうというような気持ちになってくる。

僕の前に道はない
僕の後に道はできる

という高村光太郎の「道程」の一節が浮かんでいた。人生は、いつの時期になっても、やはりこの「道程」の通りだと思われる。ただ、赤ちゃんの頃は、可能性は180度前に開いていて、道なき道を歩いて行くと、しだいに可能性の角度が狭まってくるというのが人生なんだろうな、と考えた。
人生とは白いカンバスに自分で絵を描いていくようなものだというイメージが湧いてきた。「人生とは白いカンバスに絵を描くものだ」ということは良いとして、個人の人生が翻弄される時代とは何だろうということが考えられた。時代は、個人を巻き込んで荒れ狂うことがある。空気でもないし、カンバスをおく土台でもない。時代とは何だろう、と考えても答えが出なかったが、お風呂に入っているときに時代とは川の流れではないだろうかと気がついた。時は二度と過去に戻れないように流れていく。時の流れは不可逆性だということだろう。
ということは、すべての人は、時代という時の流れの中にあり、人生は時代という川に浮かぶ船で、そこにカンバスを立てて絵を描いていくというようなものだろうか(ちょっと人生がカンバスで時代が川の流れというのはしっくりいかない)。
(でも、こうかけばいい感じになる)絵の中に人生があり、しかしその人生は時代の流れの中にある(言葉は便利だ)。
人は、歩いてきた道が人生そのものになるから、自分の道が決まり仕事が確定すると、1つの道を歩くことになる。180度広がっていた可能性は、やがて一筋の道になって歩くことになるが、それでもやはり、「僕の前に道はない」ということに変わりはない。

歩くと決めた一筋の道を歩けなくなる人がいる。違う道に進む場合は、進路変更のようになる。カンバスに描いた絵を書き換えるのは、かなりの苦労がいる。時代が個人にとって優しいときは、生活が前に出て来て人々は時代をあまり感じない。時代の流れを意識して生きている人は、その流れそのものを変えようとしたり、流れに逆らったりしている。しかし、時代を意識しないでいても、ときに時代は全ての個人を飲み込んで、人生を翻弄することがある。ファシズムが台頭した日本やドイツでは、個人の人生が戦争に巻き込まれ、踏みにじられていった。

今の中学校卒業生は、時代に巻き込まれ翻弄されるかどうかの分かれ道に向かいつつある。大海に入っていくのか、それとも個人を翻弄する戦争という流れに押し込まれていくのか。私たちは、自分たちを取り巻いている時代の流れを考えざるをえない地点に立っている。

卒業式からイメージしたのは、こういう感じだった。

第55回笠田中学校の卒業式は、式典終了後、ただちにファンキー加藤さんのコンサートが始まった。600校の応募の中で笠田中学校がコンサート会場に選ばれた。ファンキー・モンキー・ベイビーズの時代の歌も歌って、みんなノリノリに飛んで拍手して手を振っていた。卒業生に対する最高のサプライズだった。映像や動画をアップできないのは残念だ。


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出来事

Posted by 東芝 弘明