K先生と教え子の60年

出来事

「東芝さんもみえられているんだと思っていました」
通夜の席上、最初の方で焼香をさせていただいた姿をこの方は見ていた。
誰が参列しているのか、人が多い通夜や告別式になるとよくわからなくなる。
「K先生とどのような間柄だったんですか」
この質問に答える形で語り出されたお話は、壺井栄の「二十四の瞳」のような感じがした。

彼女が中学校1年生のときに担任してくれた先生は、27か28歳だった。先生はすでに結婚されていた。昭和31年に彼女が中学校を卒業し、昭和32年に結核になって1年入院をしたときから、K先生夫婦と彼女の交流が始まった。彼女の病気は完治するまでに5年もかかり、彼女は自宅で療養してほとんど外には出て行けなかった。K先生は、教え子だった彼女が病気になったことに心を配り、何度もお見舞いをして励ましていた。

15歳から21歳まで。普通なら感受性の強い楽しさに溢れているような10代後半なのに、彼女には療養生活しかなかった。K先生の書棚にある本が彼女の唯一の楽しみだったのかも知れない。山の中腹の林の中にある先生の家から本を借り、読んでは返し、また借りてということを繰り返し、ほとんど彼女は先生の書棚にある本を読んでしまった。姉と兄を結核で亡くしていた彼女は、先生に対して「私は25歳まで生きられるかな」と言っていた。

昭和32年。1957年。戦争が終わってようやく13年という時代には、まだまだ多くの貧しさがとりまいていた。貧しさの中で苦しんでいる子どもたちにK先生は心を寄せ、修学旅行に行けない子どもの旅行代を出してあげたりしていた。
先生の告別式のときに、昭和31年に卒業した中学校の教え子は、先生の好きだった曲をかけてもらって先生を見送った。亡くなった先生は90歳、見送った教え子は75歳だった。その中でも彼女と先生の交流は特別だった。元校長先生仲間のご夫婦の友人旅行に彼女は誘われて同行している。先生と教え子の交流は、夫婦と彼女との交流になり、親密な交流は60年を超えていた。

この話を聞きながら、ぼくはさだまさしの手当という話を思い出していた。傷の深い人への手当は深く、傷の浅い人への手当は軽く。これが福祉の心ではないかとさださんは書いていた。K先生の生徒に対する対応の仕方、心の有り様は、まさにさださんの手当と同じだった。
教師にとって、一番大切なのは、生徒の生活と生き方により沿って、励ますことなのかも知れない。
どうしてK先生は、教え子に対して優しかったのだろう。
「先生はなぜ教え子に対してそこまでできたんですか」
こう問うと、
「根が優しいからだと思います」
さらりと答えが返ってきた。

先生に教えてもらった子どもたちは、先生の奥さんが亡くなったとき、先生の家に行き植木の剪定や刈り込みを行い、終わった後は先生の自宅で宴を開いている。それが先生への励ましだった。彼女は、先生の父が亡くなったときも、奥さんが亡くなったときも自宅のお留守番を引き受けていた。
先生が88歳になったときの米寿の手形は、教え子3人に贈られた。教え子はそのお礼に先生を温泉に招待した。
生徒に対して優しさをたっぷり注いだ先生は、希有な存在だった。生徒に対する優しさは、老いていく先生に対する優しさになって戻ってきて、人と人との交流は死んだ後も静かに溢れていた。

教えるとは何か。学ぶとは何か。教師という職業とは一体何なのか。K先生の姿に教師の喜びがあるのではないだろうか。話を聞きながらそんなことが浮かんでいた。

先生は、幸せだったと思う。また生徒も幸せだったと思う。先生が多くの生徒にかけた思いやりは、75歳の教え子の中に生きているように見える。
今日は、教え子だった人2人に会った。この人たちがまわりの人にしている行為にも驚かされた。
先生が教え子に与えていた優しさや励ましは、75歳になった人の中に生きていた。(具体的に書くと話が長くなる。だから書かない。あしからず)

K先生は、ぼくの母を知る同じ職場の同僚だった。
選挙で訪問したときに、
「子どもらだけ3人で生活しているって、聞いてたんや。何にもしてやれんで申し訳なかったなあ」
随分昔のことに対して謝られたことがある。
先生が発したこの言葉に、どんな気持ちが込められていたか。優しい笑顔で語った先生の顔が浮かんできた。


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出来事

Posted by 東芝 弘明