学問の自由は、これを保障する

出来事

またエコキュートが故障してお湯が出なくなった。今回は、ヒートポンプの排水パイプが詰まったことによって、ヒートポンプ内が濡れ、基板がショートしたことによって、お湯が作れなくなったのだという。娘とスーパー銭湯に行き、お風呂には入ってさっぱりしたが、ほんと、お風呂がないとものすごく不便になる。2008年製のエコキュートだから設置して9年ということになる。この間、基板交換は、3回ほどあったかも知れない。なかなか微妙なバランスによって成り立っているのがエコキュートだろう。
「エコキュートはものすごく熱交換の悪い非効率な機械ですよ」
元ダイキン社員で巨大な空調システムを組んできた年配の方からこういう話を聞いたことがある。
「夜中にお湯を沸かしているので安く上がっているだけです」「オール電化はやめた方がいい」
こうも語っていた。「リスク分散ができない」のが理由だ。灯油、ガス、電気という風に別れていることが、災害時には強い味方になる。

直しに来てくれた若いダイキンの修理人は、懇切丁寧に状況を説明してくれて、明日また直しに来てくれることになっている。ダイキンは、和歌山県の北部地域に出張所や支所がなく、大阪からの出張ということになるので、いつも割高感がある。ただし一度来ても直らない場合は、一連の修理ということで対応していただける。
設置後9年、このデリケートなエコキュート。トラブルがさらに積み重なっていく可能性がある。それは「いやだ」。

午後、フリースクールと呼ばれている学校に子どもを通わせたいという方々と一緒に教育委員会と話をした。
以下はぼくの感想だ。
公立の学校のがんじがらめのシステムが、より一層現在の内閣によってその傾向を強めている時代にある。和歌山県は、全国学力テストの成績が悪かったので、県教育委員会と地教委が血眼になって成績アップのために学力テスト対策を行っている。過去問練習を積み重ねたり、教員をホテルに缶詰にして朝方まで研修をしたりしている。全国学力テストを廃止して、もっと子どもたちの知的好奇心に依拠して教育を組み立て直さないと、外部圧力による「尻叩き」のような教育は、このシステムを受け付けない保護者や子どもたちを再生産していく。
道徳心の全くない、自らの過ちに対して、牙をむいて強弁する内閣が押しつけている道徳教育。現実政治で極めて非道徳を重ねている内閣が、語る徳目というものほど白々しいものはない。南スーダンのPKOについて、文書を隠し戦闘を衝突と言い張り、それがばれても開き直り、大臣に居座る稲田さんとそれをかばう安倍首相に道徳を語る資格はない。そういう状況なのに「教育上よろしくない」ということを言えない文部科学省。こういう構図の下で実行に移される道徳教育は、最初から形骸化せざるを得ない。

同席させていただいた方々は、上記のようなことについては全く語らなかった。語ったのは、公教育とは違うもう一つの選択肢、もっと自由な、子どもたちの意欲を大切にする教育をということだった。公教育ではない自由な教育をという要求は、現在のような教育を続けていくかぎりこれからも増えていくだろう。

さらにぼくの感想を書く。
安倍内閣が続くと、「規範意識だ。徳目だ」と称して国家を愛すべきだという歪んだ愛国心(日本国を愛するという愛国心ではないもの。アメリカの愛国心は、国民がよりよい国家を求める革命権を含んだものになっている。本当に国を愛する愛国心というものは、革命権を含むべきだ)をより一層押しつけることになるだろう。「君が代」という国歌は、歌詞の意味としては「天皇の時代がずっと続きますように」というものだ。文部科学省は、これ以外の解釈はできない歌を国歌として、有無を言わさずに押しつけてきた。安倍内閣が続く限り、この傾向は強まって行かざるを得ない。安倍さんは、森友学園に対して問題が発覚し始めた当初は、教育勅語素読の教育を理想の教育だと持ち上げていたのだから。
教科書が、歴史修正主義によって歪められ、より一層国定教科書化しつつある時代に、公教育ではない教育をという動きが大きな流れになるのは必然だということだ。

「学問の自由は、これを保障する」という憲法の規定は、小学校・中学校という義務教育であっても本当は保障されなければならない。教育現場に必要なのは自由だ。学問的真理探究を保障するためには、自由がなければならない。それは歴史の教訓だったはずだ。
日本の戦前の教育は、軍国主義が強まれば強まるほど、洗脳教育に近いものになってきた。教育が軍国主義に奉仕し、国民を戦争にかりだす「道具」になってきたことを否定して戦後教育は出発し、政治による教育への介入、支配を排除することになった。この歴史の教訓に基づいて、教育は首長部局から独立した機関になり、教育は直接国民に対して行うものと変化し、教育委員会でさえ学校現場に指図することについても「すべきではない」というようになった。しかし、この最も根本的な原則が、教育基本法の改定と維新の会による教育行政への介入によって崩されてきた。教育委員会が学校現場を指揮・監督するということに歯止めや自省がなくなっているのは、まさに教育基本法改定と制度改革の結果だろう。

教育委員会は、狭い視野で現在の状況を捉えるのではなく、自分たちが組み立てている教育制度というものをもっと広い視野に立って、歴史的に見つめ直す必要がある。誰であろうと公教育擁護の立場に立って発言すると、教育の現場にさえ詭弁が広がっていく。教育における詭弁ほど見苦しいものはない。
戦後の原点というものがどこにあったのかという原点に立ち返った視点なしに、「公教育ではない自由な教育を」という流れは捉えきれない。今育ちつつある自由な教育の流れは、おそらく雑多なものだろう。しかし、これらの流れが戦後の原点、教育の民主的な原点を踏まえて発展するのであれば、それは、本来日本国憲法と旧教育基本法が求めた教育に重なっていく。
「学問の自由は、これを保障する」
ここには人類史の真理がある。真理探究の努力が、人類の価値あるものを積み重ねる努力になるという信頼がこの言葉には込められている。教育関係者には、度量の深さと広さを求めたい。


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出来事

Posted by 東芝 弘明