憎しみを持たないようにするには?

雑感

話をしていて、「憎しみ」とは何かということを考えはじめた。キリスト教や仏教でも憎しみを論じている。一度抱いたらなかなか消えることのない感情で、持続する傾向がある憎しみは、人間の行動を支配するような強烈な力をもっているように感じる。
「憎しみ」とは何だろう。「憎しみ」は、どこから生まれるのだろう。
議員になって21年間の中で、相手を憎んで対立した事例をいくつか見てきた。いくつかの事例を身近で見てきた中で、「憎しみ」というのは、私怨(しえん)ではないかと思ってきた。私怨とはまさに社会制度に対する怒りではなく、私から発した怨みだ。
なぜ、「憎しみ」を私から出発するものだと捉えてきたのか。
憎しみの起点には、相手によって自分の人格や尊厳が否定された事件がある。全ての人が、そうなる訳ではないが、人格や尊厳が否定された事をきっかけに、今度は相手の人格や尊厳を否定しようとする──これが「憎しみ」の本質ではないだろうか。
相手の人格を否定する態度は、最悪の行為だ。人格否定の言葉や行為は、人格への攻撃に他ならない。人格攻撃は、存在の全面的な否定にさえつながる。人格への攻撃は、どんなに些細なことであっても、絶対に許せないという感情すら抱かせる。「憎しみ」はここから発生する。
小さな、些細なことからでも「憎しみ」は生まれる。生まれた「憎しみ」が増幅することも多い。
愛情が「憎しみ」に転化するケースがある。愛情というものは、私の個性的な感情からあふれ出るものだろう。愛情には、私が愛しているように相手も私を愛してほしいと願うものがある。このような愛し方は、自己愛の裏返しだと思われる。自己愛が強すぎる場合、相手の愛情が得られないと「憎しみ」が生まれることがある。私的な感情である愛情は、私的な感情である「憎しみ」に転化する。少なくともこういう可能性がある。
私的な感情である「憎しみ」は非常に恐い。「憎しみ」にもとづく攻撃は、相手を亡き者にするような形で繰り返される。場合によっては、「憎しみ」は殺人にまで発展する。
怒りと「憎しみ」は、似ているようで大きく違う。怒りは私的な感情から出発しても、やがて社会制度などに向かっていく。感情的な怒りもあるが、持続していく怒りは、静かな怒りとでもいうようなものになっていく。冷静に怒るということはあり得る。怒りが「憎しみ」という感情と混じり合う場合、その根底には私怨がある。
「罪を憎んで人を憎まず」ということわざがあるけれど、「罪を憎んで」は「罪に怒って」に近い。「罪を怒って人を憎まず」──こちらの方が的を射ている。
「憎しみ」の感情を持たないようにするには、どうすればいいのだろう。コントロールできない感情が「憎しみ」なのではないだろうか。ということは、自分ではどうにもできないということだろうか。こんな設問を設けることができるのは、今まで強烈な人格攻撃を受けたことがないからなのかも知れない。
でも、あえてぼくの私説を書いておこう。
相手の私的な人格攻撃を私的な感情で捉えるのか、それとも人格攻撃を社会的に広がりをもった視野で捉えられるかどうか。ここに一つの分岐点があるように感じる。もちろん、人間は感情の動物なので、人格攻撃を受けたら冷静に対処できず、激高してののしりあうこともあるだろうし、喧嘩になることもあるだろう。でも受けた人格攻撃を、あとで冷静に社会的な広がりの中で捕らえ直せるかどうかが大事だと思う。社会的な広がりの中で捕らえることによって、私的な感情だけに支配されない視野を得られる。そうすれば、「許せない」という感情から「許せる」という感情への転化を図れるのではないだろうか。
「許せない」という感情は、極めてやっかいだ。この感情は、ストレートに相手の人格否定に繋がって行く。たとえば、最愛の人が殺されたら、「許せない」という感情に支配されるだろう。理不尽で理解不能な事態に直面したら「許せない」という感情になるだろう。
でも、「憎しみ」という感情にはとらわれたくないと頭で考えている。できれば、「憎しみ」を怒りへと転化させたいと思っている。
「憎しみ」を一切抱かないで生きれるかどうか、と問われたらまったく自信がない。ぼくは、「絶対に許せない」という問題がある事を否定できない。ぼく自身が、「憎しみ」に支配されることもあり得るとも思っている。
しかし、自分の身の回りで日々発生している「許せない」という多くの事件は、社会的な広がりの中に問題を置き直して、視野を広く見直していけば、「許せる」ということに転化できるのではないだろうか。
「許せる」とは、「相手の行為を免罪する」ことではない。社会的な広がりの中で相手の人格攻撃をとらえ直し、なぜそういう攻撃が行われたのかを考えて、相手の行為を肯定的に、同時に否定的にとらえ直すということだ。つまり「許せる」というのは、半ば許し、半ば許さないという見方をもつということだ。これができれば、私的な感情から冷静な怒りへ、相手の人格否定から行為の否定へと視点を拡大できる。「許せない」と思っている問題の多くは、「許せる」問題なのだということをいいたいのだ。
ぼく自身は、「憎しみ」に支配されるような生き方はしたくないし、できれば、相手を憎むような感情は持ちたくないと思っている。今日書いた文章は、自分への戒めとして意味をもつと思っている。
自分の胸の内に対し問いかけた文章。まとまらない文章。これが今日の文章だということで、自信のなさを露呈しつつ、逃げ込む場所をつくって文章を閉じたい。
(追記)
うーん、文章にするとなかなかむつかしい。最近娘に「文章が難しい」と言われた。中学生が読んでも分かる文章を書きたいと思いはじめているが、今日もまた訳の分からない文章になってしまった。


にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 和歌山県情報へにほんブログ村 政治ブログへにほんブログ村 哲学・思想ブログ 哲学へにほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

雑感

Posted by 東芝 弘明