新しい事実が論理を発展させる

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バックアップディスクであるTime Machineからデータを元に戻すのにかかった時間は、10時間30分だった。思った以上に時間がかかった。結局、前回と同じほどの時間が必要だった。考えが甘かった。ソフトの開発環境であるXchordは、もう2度とインストールしないようにしよう。システムがおかしくなって、再構築が必要になるのはもうこりごりだ。
自宅に帰ってから清流の原稿を作成した。これで2週間続けて清流を発行できる。今回と前回の原稿は、宮井議員が作ったものだ。厚生労働省の資料については、PDFファイルをPhotoshopに読み込んで、psdファイルに変換したものを使うことにした。
さて。
最近、政府の資料などについては、検索すると比較的簡単に取得できるようになっている。
インターネットは、学ぶ気になれば、情報の宝庫として非常に役立つものになっている。ウキペディアもかなり大きな役割を果たしている。
文章を書くときも、ネット上の情報が役に立つ。必要なのは、メディアリテラシーだ。何でもかんでも信じて、コピー&ペーストを繰り返していては、何も身につかない。
大量の情報を読み解いていく精神が重要になるが、同時に必要なのは、具体的に(物理的にといってもいいかも知れない)事実を把握することだろう。
足を運ぶ、電話取材をするなどして、得た情報には書かれていないことも把握して、1歩でも2歩でもさらに事実に肉薄することが大切になる。
物事を深く考えるために必要なのは、情報だろう。新しい視点に繋がるような情報がなければ、自分の思考や認識は発展しない。できるだけ多くの情報によって、視野が広がり視点が広がったり深くなったりする。新しい事実を把握する努力をしないと、思考は小さくまとまってしまう。
最近の情報で、非常に面白いと感じたのは、光よりも速い物質があり、それはニュートリノだということだった。これが事実だとすれば、1905年に発表された特殊相対性理論の変更が余儀なくされる。新事実が、人間の認識や論理の発展を求める。絶えずこのような革命的なことが繰り返されている。
昨日、娘につきあって理科の運動エネルギーにつながる話を聞いて、少しネットで調べてみた。質量と重量の違いについて、ぼくが中学校で習ったときには厳密に習わなかった問題が、学習内容に組み込まれていたのには、少し驚いた。中学校の1年生にして、質量と重量の違いについてかなり厳密に区別して習っているとは思っていなかったからだ。
重量についての公式までは、まだ習っていないが、月の引力との関係で、物質の質量は普遍だが、重量は、物質と物質との間に生じる万有引力によって発現するものであることが明らかにされ、月では、地球上の重量の6分の1になることが示されていた。
当たり前のことだが、学校で習うことについても、時代とともに学習内容が変化することを知った。学ぶと、新しい思考が自分の中に生まれる。自分の認識に中に入ってくる(自分にとっての新しい)事実は、新たな1歩を生み出してくれる強烈な契機になる。
大事なのは、理論ではない。最も大事なのは事実だろう。ぼくの恩師であるM先生は、「概念は腰掛けである」と言った。面白い言葉だった。新しい事実の前で、概念は腰掛けのように取り替えなければならないという意味だ。新しい事実が観測によって確かめられると、この事実を軸にして、なぜそうなっているのかを明らかにする必要がある。その研究は、事実が成り立っている構造を立体的に把握することに費やされる。
事実の前に謙虚になることが、何よりも大事になる。事実の前に屍のような論理の山が築かれる。試行錯誤を繰り返した論理の山は、それ自体、大切な宝物だが、しかし、それは、累々とした論理の屍でもある。この屍を乗り越えて明らかにできた確かな論理は、全ての屍をごみにして、人間の認識を前に進める。
それが人類の進歩だろう。
試行錯誤は、無駄ではない。試行錯誤は、新しい真実を発見する壮大な努力であり、この努力なしに真理を含んだ論理は生まれない。
光速よりも速いニュートリノの存在が、21世紀の新しい物理学の飛躍を生み出すかも知れない。
社会科学は、自然科学よりも謙虚でない。いつも経済的な利害が真理の探究の前に障害物として立ちはだかる。試行錯誤ではなく、生まれたときからごみのような論理が山のように築かれる。なかなか事実さえ特定できないので、多くの人々が真理だと叫べば、裸の王様のように、みんなその誤った論理になびいていく。新自由主義の台頭は、まさに裸の王様のような現象だろう。
見抜くのは比較的に簡単だ。正鵠を射ない論理には、いつも証明がない。そこには強弁や思い込みがある。根底に横たわっているのは、「多くの人がそういっているから」というものだろう。
この10年間、大企業の減税をすすめ、庶民増税をすすめてきた。規制緩和は、たえずこういう方向で繰り返されてきた。その結果、日本経済は結局は大きく失速した。10年間の経済政策の失敗について、日本の経済界や政治は、全く反省がない。この10年間とは一体何だったのかという検証がない。具体的な事実の前に謙虚でない。
野田政権は、大企業減税と庶民増税で復興財源をつくろうとしている。これは、失敗してきた道だ。この道をなぜ進むのだろう。この政策の破たんをなぜ直視しないのだろう。
繰り返して書いておきたい。
正鵠を射ない論理には、いつも証明がない。
大企業のもとに富が蓄積され、国民のもとに格差と貧困が蓄積されている。このジレンマを乗り越えて、国内市場を拡大するためには、内需を拡大しなければならない。そのためには、国民の所得を引き上げる必要がある。賃上げと労働時間短縮、雇用の拡大。この方向に経済を転換して、国内市場を大きくしなければ、さらに次の破たんを引き起こしてしまう。
日本政府は、このことを自覚すべきではないだろうか。


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Posted by 東芝 弘明